私はゆっくりとお茶を飲んで、ふう、とソファーにもたれかかった。
「…何かあったの?」
課長が急にやさしい口調で私に話しかけた。私は、サンドイッチを飲み込んでから、課長の方を見た。
「何かって、何でですか?」
「いや、さっき何かすごい顔してたからさ」
「あー…何かって言うか、さっき、目の前で人身事故見ちゃって、ちょっとパニックになっちゃったっていうか…」
「え! 人身事故!? そこの駅で?」
「そうです。ホームレスっぽい人がホームに落ちたかなんかで、血とか飛び散っちゃって、もう本当びっくりして」
「へー!」
「そうなんですよー」
課長はお茶を一口飲んだ。
「いや、何かさ、佐藤ちゃん落ち込んでそうだったから、相談のろうと思ったんだけどさ、それじゃあ俺としても何も言えないよね」
「あはは、そうですよね」
「いやあ恐いね、目の前で見ちゃうとねー、いやーそうだよねー」
課長はしきりにへーとかそうかーとか言いながら、サンドイッチの最後の一口を食べた。
「よし! じゃあ飲みに行こう!」
「え?」
「どうせこの仕事今日じゃ終わんないし、せっかく佐藤ちゃんも来た事だし、そういう鬱憤晴らすのも上司の役目だからさ」
「えーそんな、いいですよー、ちょっとびっくりしただけで、もう大丈夫ですからー」
「いや、俺が行きたいんだよ、ちょっとでいいから付き合ってよー」
課長は、少し甘えるようにそう言った。
「あ、そうなんですか、じゃあ、行きましょうか」
「よし、じゃあー行こ! 佐藤ちゃん何か食べたいもんある?」
「そうですねー…居酒屋とかいいですね、焼き鳥とか」
「焼き鳥! いいねぇ焼き鳥!」
課長は書類をまとめたりパソコンの電源を切ったり荷物をまとめたりした。私は湯飲みときゅうすを流しに入れて、タバコを吸いながら課長を待った。課長の準備が整って、私たちは職場を出た。蛍光灯のスイッチを切ったとき、何かの気配を感じて私は振り返った。でも、そこにはもちろん何もなくて、私は頭をかいて課長の後に続いた。エレベーターのドアが閉まる瞬間に、子供の笑い声が聞こえた気がした。
課長が二人分の、6杯目の生ビールを注文した。私は飲みに来た事を後悔しながら、むしゃむしゃと焼き鳥を食べていた。三杯目を飲み始めた頃からずっと、課長は職場の人間に対する愚痴を言い続けていて、私はそれについて曖昧な返事をし続けている。カウンターの奥でハッピとハチマキの店長と、バイトの男の子が焼き鳥の仕込みをしている。小さな鳥の心臓を半分に切って竹串に刺す。半分に切って、刺す。半分に切って、刺す、半分に切って、刺す、半分に切って…。
だから部長はさ、上に立つ人間じゃないんだよね、わかる? 佐藤ちゃん。俺はね、別にいいんだよ、別に仕事ならいくらでもやるんだよ。でもね、俺は部長の小間使いじゃないんだよ、俺にだって俺の仕事があるんだよ。ね、佐藤ちゃんね。…あーごめんねー愚痴っちゃってるね俺。もー何か嫌になっちゃうよー。あーもうやめ、愚痴やめ! ね。あ、佐藤ちゃんレバー食べる? ここのレバーおいしくて有名なんだよ。ね、レバー好き? そう、じゃあ頼みなよーお父さん奢ってあげるからさー。よし、じゃあ俺が頼む。店長、店長、レバー二本くれる? あと熱燗ちょうだい。…大丈夫大丈夫! 全然大丈夫だから。うん。え? え? 大丈夫? 佐藤ちゃん、佐藤ちゃん大丈夫? 佐藤ちゃん、佐藤ちゃん、ちょ、店長、救急車呼んで、救急車! 早く、救急車呼んで!!
ガタン
電車が大きく揺れて、私は目を覚ました。目を覚ました。目を覚ました。目を覚ました。目を覚ました。目を覚ました。目を覚ました。目を覚ました。目を覚ました。目を覚ました。目を覚ました。目を、目を覚ました、目、目…。
「おはよう」
(了)
2007年1月15日号掲載
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