会社から駅に向かう道の途中で、色んな物を配っている人の群れを通る場所がある。テレクラのティッシュだとか、消費者金融のティッシュだとか、フリーペーパーだとか求人雑誌だとか。私は、断るのも面倒なので、他の多くの人と同じようにうつむき加減に、早足でそこを通り抜ける。すると半分くらい過ぎたところで、急にテラテラ光る紫色の靴が、私の前を塞いだ。

「あ、ごめんなさい」

 私は小声でそう言って、それを通り抜けようとした。するとその人は、黙ったまますっと、私に何かを手渡した。それは木で出来た黒い小箱で、表面に厚くニスが塗られていて、つるつるとしていた。驚いて顔を上げるとその人はもういなくなっていて、私はその場に立ち止まって周りを見渡した。人がごったがえしていて何も見えない。私はその人を探すのをあきらめて、箱をバッグの中に入れた。

 電車のホームで箱を開けると、中に名刺くらいの大きさの紙が入っていた。
表面は真っ白で、何も書いていない。私は、それを箱から取り出して裏返した。


   いれもの


 紙の真ん中に小さく、赤い文字でそう書いてある。いれもの?

「勘弁してよ…」

 私はそう呟いて、ホームのベンチに座った。そして、ポケットから石を取り出して、その箱の中に入れてみた。ああやっぱり、ぴったりだ。私はため息をついてそれをまたバッグの中にしまった。

 ふと、何かが腐ったような匂いが私の鼻をつんと刺激した。目を上げると、色の黒い、カーテンのようなぼろぼろの布をまとったおじいさんが、缶ビールを飲みながら目の前を歩いていた。その3メートル四方には人がいなくて、何だか異様な雰囲気。私は鼻に手をやって、その匂いをかわそうとした。そして何となく、バッグから、内臓の石を取り出した。少し温かい。私は驚いて石を見た。白い模様が、寄生虫のようにくねくねと動いている。私は気味が悪くなって、とっさに石を落としてしまった。その瞬間に、ドン、と大きな音がして、辺りに何かが飛び散った。きゃああという高い悲鳴が響き、電車がキイイイイと耳障りな音を立てて停車した。私はとっさに、石が割れて大きな音を立てたのかと思った。でも、前を見てすぐに何が起きたのかを理解した。

 さっきのホームレスのおじいさんが、ホームから落ちて電車にひかれたのだ。飛び散ったものはそのおじいさんの血や肉片で、さっき私が落とした石にも、おじいさんの何かがついていた。私はどうしようもなく動揺して立ち上がり、石を置いたまま走って階段を下りた。私のせいかもしれない。もう一度走って会社に向かった。誰か私を知っている人に会いたい。頭がおかしくなりそうだ。

 会社のあるビルのエレベーターに乗って私の職場に着くと、課長が休憩場所のソファーでサンドイッチを食べていた。私はほっとしてソファーに近付いた。

「お疲れさまでーす」

 課長は少し驚いたような顔をして、その後すぐに笑って私に話しかけた。

「あー、佐藤ちゃん! おつかれー。どうしたの? 何? もう出勤?」

「いや、忘れ物しちゃって、取りに来たんですよー」

「へえー、そう。まあ、ゆっくりしてきなよ。サンドイッチ食べる?」

 課長はそう言って、灰皿の隣に置いてあるサンドイッチの箱を取り、私の方へ差し出した。

「えー、本当にいいんですか? じゃあ、すみません、いただきまーす」

 私は課長の隣に座り、たまごのサンドイッチを一つ、手に持って食べ始めた。

「仕事、まだ終わらない感じですか?」

 課長はうーんと大きく伸びをして、とんとんと自分の肩を叩いた。

「そうなんだよー、部長がまた変に絡んできてさー。もう大変だよー」

「あはは、何か手伝いましょうか?」

「え? いいの?」

「いいですよー、どうせやることないですからー」

「あはははは、佐藤ちゃんは優しいねー。うそうそダメだよ。君の仕事じゃないんだから」

 課長は新しい湯のみをソファーのそばにある棚から取り出して、私にお茶を注いでくれた。

2007年2月19日号掲載
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