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 僕はまた、実と枝とを交互に鼻先に近づけると、何度も何度も嗅いだ。
 お陰で、ちっとも作業が進まない。ようやく本腰を入れて鋏を入れていくと、木守りどころか十数個もあり、季節はずれに大した収穫であった。
 実を椅子に並べて置き、それを自慢げに眺めた後、もう一度花を観賞しようと、樹に近づいた。
 ふと、目に付いた花の一つが、どうも花びらの数が多いようだ。どうしたことかとよく見ると、5弁の花びらだとばかり思っていたそれは、6弁であった。傍のほかの花も数を読んでみると、6弁のものもあれば、8弁くらいのもあった。僕は、樹の周りを、忙しなく調べて廻った。何ということだ。かなりの数で花びらの数が、5弁ではなかった。
 これは、畸形なのだろうか。
 あまりに多い、畸形の花びらに、眉間に皺を寄せていた。
 更によく見ると、今まで目に付かなかったしいなも、畸形の花の陰にちらほらと見て取れた。一体何時から実り、萎んでしまったものなのか、大きさもまちまちで、緑色から黄色いものまで色々だったが、どれも違わず朽ちようとしていた。花に目を戻せば、中心で突き出た雌しべが雄しべより異様に背が高く、しかもぬめぬめとしている。その匂いに、恍惚として寄り添うかのようなちまちまとした雄しべは、まるで、雌しべに媚びているかのようだ。これが植物の生態なのだとは分かっていても、中心で誇らしげに屹立する雌しべまでが畸形のようで、無性に苦々しく思えて来て、今の今まで愛でていた気持ちが完全に失せてしまっていた。股間の疼きも、秕のように萎んでいた。
 畸形は、僕だけでたくさんなのだ。
 
 収穫した檸檬を、ポロシャツの裾を捲り上げ容れ物代わりにして荒々しく放り込むと、ベランダへと大股で向かった。サンダルを脱ぎ散らかして上がると、ガラガラと掃き出し窓を開けてリビングに上がり込んだ。後ろ手に窓を閉めれば、大きな音を立てて窓枠に当たり、また少し開いた。
 部屋を横切りキッチンへと行った。果物かごを棚から取り出すとダイニングテーブルに置き、ポロシャツの裾から手を放して、檸檬を無造作に落とし込んだ。ごとごとと音を立てて、中に納まったそれは、まだ強い芳香を放っていたが、僕はもう興味を失っていた。
 この果実も、きっとあの畸形の花の成れの果てに違いないのだろうから。

 
 そんなことよりも、指先に付いた、煙草のやに臭さが気になって仕方がない。

 臭いの元の分散が厭だから、決して左手では吸わないようにしているので、右手だけに臭いがついている。ハンドソープのポンプを何度も押して泡を片手いっぱいに受けると、ごしごしと擦った。
 お陰で僕の指先は、年じゅうかさついてぼろぼろだ。だが、何かをする度に指先の臭いが気になることに比べたら、どちらを優先するかは言わずと知れたことだ。
 レバーを腕で跳ね上げて、迸る水に手を差し入れる。禊ぐかのように時間を掛けて濯ぐ。
 気が済んだところで、また腕でレバーを下げて水を止めると、キッチンペーパーで手を拭く。当然のことだが、どんなにそっと洗おうと、シンク周りには水滴が飛び跳ねるが、今は慌ただしく手を洗った所為で、泡や水が盛んに飛び散っていた。僕はまたキッチンペーパーをくるくると巻き取り、丁寧にシンクを拭う。水滴を一つ残らず拭き取っていく。矯めつ眇めつ、納得のいくまで仕上がり具合を点検する。
 習慣化したこの作業は、非合理的であると夫の冷笑の対象となっている。

 しかし、どうにも、汚いままでは我慢がならない。
 
 折角、穏やかな休日だと思っていたのに、檸檬の所為で暗澹たる気分に陥っていたが、いつもの通り家事をこなした。静かな夕食を摂り、先に終えた自分の分だけ食器を洗っていると、そのうち夫も食べ終えて、無言で自室へと引き上げて行った。振り返り見送りながら、夫は僕が起き出すより早く日曜出勤してしまったので、今日一日、「お帰り」の一言しか喋っていないことに、胸の裡が燻り、鬱々とした気分が蘇った。
 家事を終え風呂を使うと、独りの寝室でレンタルのDVDを観始めた。
 もう何年も、夫とは寝室を別にしている。

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2009年7月26日号掲載

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