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 思考が巡らなくなってきている。
 頭蓋骨の中の狭苦しい場所で、纏まりの悪い考えが至るところで重なり合 い、そのエナジーが発光して束になり、写真のハレーションのように周りをぼやかしていく。
 まるで、部屋に置いてあるあの鏡のように、見たい場所を隈なく映し出さなくなっている。
 鏡も持って来ればよかった。
 この妖しくも神秘的な月の光の中、もしかしたら本当の僕の姿が、映し出されるかも知れないのに。そう思ったら、畸形の根源を見てみたくなった。前屈みになり、股間を覗き見た。親指ほどの太さにも育った陰核が、摩擦を受けてはち切れんばかりに屹立していた。あの、檸檬の花の雌しべと同様、誇らしげでもあった。昼間を思い出し、ちょっと、苦い顔になりかけたが、興を醒ましそうで、思い直した。畸形を誇らしく思って、なにが悪いんだ。そう、思おう。
 ふと、Tシャツも脱いでみたら、もっと気持ちよくなれるだろうかと思い、脱ぎ捨ててしまった。
 夜気に触れ、肌が粟立ち、胸の頂が尖った。女の乳房が、そこにあった。
 然し其処も、全く女でも有り得なかった。乳輪の周りが毛で飾られ、胸の谷間にも、乳房にも、毛が生え始めている。臍から陰部へと下腹一体に、疎らながら黒い毛が続いている。男でも女でもなく、また、男でもあり、女でもある、畸形の体が月光に晒されて、白く浮かび上がっていた。尖った頂を摘むと、全く女の体であった頃と同様の快感が訪れて、息を零した。
 庭先で、畸形の裸体を投げ出し、密か事をすることに、溺れていた。
 今、頭の中で、月光の、それもいきなり第3楽章が流れ始めた。閉じた瞼の裏に、激しく叩かれる鍵盤が見えてくる。その盛り上がりに連れ、手の動きも速まっていく。曲調と相まって、僕のオルガズムもすぐそこまで近づいている。息が上がっていく。

 もう、考えることは、やめよう。
 是非や、可否は別として、結局僕は、夫には内緒で何もかもやっていく覚悟なのだから。
 僕は、僕以外の何者でもないが、何人も、僕たり得ない。それでいいじゃないか。形にばかり拘るのは、形すら思うままにならないからだと、思っておこう。
 目を開けて、股間を見据えた。更にずんずんと手の動きを速めると、中から収縮が起こり、瞬く間に極まった。畸形の蕊が、存在を主張するように、醜い芋虫のようにひくひくと蠢いていた。僕は、この日二度目の発声を、夫の名で締めくくりたかったが、声が掠れて吐息が漏れただけだった。
 冴え冴えとした月光に、仄白く色褪めた唇が、彼の名を象って震えるとき、虚仮の僕を嘲笑うかのように、檸檬の樹から、秕がぽとりと落ちて転がった。

 あれから、一月経った。
 日差しもあの頃より、大分きつくなっている。
 眩しさに、僕は顔を顰めながら庭へと下りていった。蒸し暑い外気に、すぐにでも汗ばみそうなほどである。犇くほどだった花は、今はもう、檸檬の樹の根元で、びっしりと薄汚れた残骸の輪を作っている。あれほどの数が咲いていたというのに、結実したのは数えるほどだった。その代わりに、また、新たにちらほらと花がついていた。疎らな蕾と花に、今度は順調に実を結ぶのだろうかと、少しだけ憂えた。
 枝先の開いたばかりの花に、あの時と同じように鼻先を近づけて、匂いを胸いっぱいに吸い込む。芳香に、何故か胸の裡が甘酸っぱく満ちていく。花弁の数は、もう数えなかった。
 携えてきた煙草に火を点ける。
 今日も一服目を、深々と吸い込む。息を止め、そして強く煙を吐き出した。風の凪いだ今、煙は揺蕩いながら、檸檬の木と、僕との間で、留まっていた。僕は左手を出し、煙を混ぜっ返した。きっと、煙草の臭いが纏わりついていることだろう。人から見れば、大したことではない。しかし、僕の硬い殻は、少しだけ罅が入り始めて来ていると感じている。がらんどうで、中身の何も詰まっていなかった殻の、罅の隙間から少しずつ、外から光が差し込んで来ている気がする。そのうちに、光で満ち満ちて殻が砕け散り、僥倖が訪れることもあるかもしれないと、思いたい。僕には、明日があると、思いたい。
 僕は、タラのテーマをハミングした。我ながら、あまりの調子っ外れに、噎せ返って笑った。

(了)
2009年
9月7日号掲載

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