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 母は、仕事を持っていることもあるが、料理が苦手な人なので、手作りのおやつなど作ってくれたことがなかったし、家で口にするおやつは、テレビで漫画の時間帯にコマーシャルをしている、子供向けの菓子ばかりだった。

「ちゃんと、いただきますって言うのよ。」
 先回りしてそう言われることも、厭だった。しかし、菓子の誘惑には勝てずに、言われたとおりにいただきますと小声で言って、欠片を口に運んだ。口に入れた途端、まな板に付いた生臭い臭いがして、菓子の味は悪くないのに、美味さが半減した。
 すると、この家の台所の不潔さを改めて思い出し、貰うんじゃなかったと後悔してしまう。
 そうなると、もう味など二の次で、汚さばかりが気になった。
 シンクの隅の三角コーナーには、生ごみが入っていなかったことなどなかったし、その厭な臭いがしていた。食器を伏せた籠も、仕舞うことがないのか何時も盛り上がっていて、しかも落ちた水が受け皿に溜まり、ぬめぬめとしていた。掛けている布巾も、染みがいっぱいついていた。それなのに、卑しそうにおやつを欲しがった自分が許せなくなってしまう。しかし、それでもまた、次の機会には同じ事を繰り返す。
 母のことなど好きでもなかったし、不潔なこの家などもっと嫌いだったが、この家族のように、子を慈しみながら作る母の味を、その母を慕い子として喜びを表すことに、飢えていたのだろうか。
 兄弟は、おばさんが居合わせないときでも、母親が言うのと同じように口調を揃えて言った。
「欲しいだろ、欲しいって言えよ。」
「欲しいだろ。」
「いらない。」
「嘘つけ。欲しいくせに、無理すんな。美味いよなあ、ヒデキ。」
「美味いよなあ、お兄ちゃん。」
「いらないったら、いらない。」
 そんな時は、いつも走って誰も居ない家に帰った。馬鹿にしたような言い草に、傷ついていた。
 それでも僕は、そんなことを母に言いつけたことはない。人の悪口は言ってはいけないものだと、信じていたし、僕が物欲しげな態度を取ったからだと、なじられることも分かり切っていた。

「おい、手になに持ってるんだよ。」
「持ってるんだよ。」
 手をじ開けられそうになり、慌てて少しだけ手を開いて。蠢く虫を兄弟に見せた。
「尺取虫じゃないか。」
「しゃ……じゃないか。」
 シャクトリムシって言うのか。思い掛けずに、虫の名前を知らされて、胸のつかえがおりた気がした。
「おい、それ、寄越せ。」
「寄越せ。」
 いちいち兄の言葉をリフレインする弟が鬱陶しくて、頭をはたいてやりたかったが、そんなことをしておばさんに言いつけられると、母の立場が悪くなるのは目に見えていたし、母がその憤懣の切っ先を僕に向け、ぐさりと抉るように叱ることも容易く予想されたので、寸でのところで我慢した。

「いや。」
「寄越せよ。」
「いやだよ。」
「ばーか。」
「ばーか。」
 二人がかりで手を抉じ開けられそうになり、ぎゅっと握り締めた。
 しばらく押し合っていたが力で敵うはずもなく、手がぱっと離れた途端、尺取虫が足元にぽとぽとと落ちていった。
「あ……」

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2009年10月5日号掲載

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