私の後ろに電話の順番を待っている男の人がいることに、私は初めて気づきました。「あ、長話してごめんなさい。」
男の人は若く、私と同じくらいの年ごろに見えました。
「きみ、あんな電話をしちゃ駄目だ。僕はイバラ。僕ときなさい。」
彼は私の手を曳いて、どんどん歩きはじめました。それが、きみ、イバラでした。きみの部屋からは、ドブのような神田川が見えました。きみのアパートは、電車が通るたびに揺れました。
私は、ブーツを脱ぐのをためらっていました。今なら逃げだすことができる。イバラだかノバラだか知らないが、ロクに顔も見たことがない男――――――でも、あのチラシのダミ声の男についていっても、結果は似たり寄ったりか、と思い直し、私はブーツを両方脱ぎました。
「きみ、名前は。」
「梵天瓜。」
「僕はさっきも名乗った、」
「イバラさんでしょ。」
「イバラ、でいいよ。」
「私をどうするつもり。」
「きみはなにをしようとしていたんだい。」
「極めて消極的な売春行為です。不可ませんか。」
「否、そんなリスクを冒すより、僕の部屋でゴロゴロしていたほうがマシだよ。」
「代償は。」
「え、」
「ですから、泊めていただく代償は。」
「そんなもの、期待していないよ。強いて云うなら、友情かな。」
ああ、何処へ逃げてもつきまとう、ジョウという名の心。私はその瞬間、自分の心を凍らせました。どんな情にもほだされない覚悟を決めました。
「僕は、見ての通り、貧乏な左翼学生さ。親からは勘当同然。アルバイトでムスケルをやっているんだ。どの党派の書体も熟知しているよ。」
「ほんとうは、何処の細胞なんですか。」
「さあ。自分でもわからないな。最初は社学同に所属していたけど、流れ流れて、今ぢゃ立てカン看造りのプロだよ。」
「あの。お願いがあるんだけど。」
「なんだい。」
「私の家にいって、私のラピスラズリのペンダントを取り返してきて欲しいの。もちろん、私が何処にいるか内緒で、イバラもつけられないように。」
「尾行のやり取りには慣れてるよ。でも、その、ラピスなんとかっていうのはなんだい。高価なのかい。」
「安物の玩具よ。でも、私には必要なの。お願い、取ってきて。」
「これからかい。」
「明日では駄目。」
「わかった。それはどういう形状のもの。」
「青くて丸くて、夜空みたいな玉よ。ペンダントになってるわ。金色の鉱物が表面に散っている箇所もある。」
「きみの家は。」
「遠くはないわ。」
私は、急いで駅と地図を画きました。
「リアリー・シンって、女の子がいるの。注意して。彼女は妨害する筈だわ。私のことを、キチガイだと云うかもしれない。」
「きみが、例えキチガイでも、僕が拾ったんだ。願いは叶えてあげたい。」
「ありがとう。」
イバラは、雪が降りだしそうに寒い空の下へ、背中をすぼめて出てゆきました。私はイバラの部屋をざっと見渡しました。ジュリーのポスターが貼ってあります。ホモなのでせうか。
私を拾ったのが、まったくの同情からだったとしても、イバラにも心をひらかない決意を私は固めていました。私に必要なのは、柔らかな抱擁ではなく、やさしい愛情の言葉でもなく、ただカルモチンなのですから。
2008年9月8日号掲載