ほどなく、イバラは戻ってきました。
「門前払いを食わされたよ。それから、真罪という女につけられた。巻いてやったけどね。どうでも、ペンダントは渡さないつもりらしい。今度は友だちを連れていって、強奪してきてあげるよ。」
「いいの。もう、いい。それこそ、真罪のおもうツボだわ。私が危険な連中と付き合っていると両親におもわせる口実になって、警察が介入するわ。きみだって警察は嫌でしょ。」
「ああ、警察にはいいおもいでがないな。」
イバラはムスケルの仕事があるからと出掛けていきました。私は畳の上に寝転がって、ストーブ代わりの電熱器が燃えるのを眺めていました。寒かったので、コートは脱ぎませんでした。
イバラはセーターしか着ていませんでした。よく平気でいられるものです。少し感心しました。東京の冬は寒いです。私は千葉で育ったので、東京に越してきてからは、冬が大変寒いことに驚きました。
ああ、なんのお話をしていたのかしら。ラピスラズリがない。でも、カルモチンさえあれば。私はコートのポケットから卵色の箱を出し、中の薬壜から、ザーッと薬を口に入れました。噛み砕きます。
途端に世界はパラダイスに変わりました。トパーズの霧がもやもやとし、私は眠りとも覚醒とも呼べぬ沼に腰まで浸かって、両腕を緩慢に動かしていました。いつ、イバラが帰ってきたのか、知りません。気がつくと、イバラがいました。
「ねえ、薬、ある。」
私のカルモチンはさっきのぶんで、最後でした。
「ハイミナールならあるよ。」
「嫌。カルモチン。」
「そんな高級品はないな。でも、金を渡して呉れたら買ってきてあげる。」
きみは、薬は不可ないとは云わないのです。私はそれだけで、きみに縋ってしまいました。
「これで、買えるだけ買ってきてちょうだい。」
「うん。」
階段を駆け下りてゆく音。
私は浅く眠りました。眠りのなかで、私は傑作のよい子でした。小学生に返った私は、大人の号令通りに、きびきび動き、真面目で誠実であろうと狂ったように努力していました。
クラスでいじめがあれば、率先して助けに回りました。仲間たちから、チクリ魔と呼ばれ、次第に誰も私を相手にして呉れなくなってゆきました。それでも、私は、誠実に生きることという枷から逃れられませんでした。
私の至誠天に通ず、という正月の習字は校長室の扉に貼り出されました。翌日、半紙はズタズタに刻まれていました。私は、この世の悪を憎む、正真正銘、純心天然、よい子でした。ズタズタになった半紙を片手に、血相を変えて走り回り、犯人を探しました。
破ったのは、私が以前に庇ってあげた身体障害者の女の子でした。誰が親切にして欲しいって頼んだのよ。彼女はそう云って、私の手から半紙をちぎり取り、足元に落として、不自由なほうの足で踏みにじりました。
私はなにが起こっているのかよくわかりませんでした。それからも、よい子の行進は続きました。よい子は、中学でひどいいじめに遭いました。トイレに入れば、水が降ってくる。教室では、授業中にコンパスの針で刺される。休み時間にはスカートをまくり上げて、頭の上で縄跳びの紐で縛って茶巾にし、パンツを脱がされる。
私がようやく立ち上がると、パンツはパスにパスを重ねられ、私が疲れ切ったところで窓の外に投げ棄てられる。下校時には、私の靴は、変な虫がたくさんいる、腐葉土のタンクの中に隠されている。
それでも、よい子は行進を続けました。ついに、友人と呼べる人間がいなくなり、私は中学を卒業しました。
リアリー・シン、真罪さんと出会ったのは、高校です。中学で三年間の刑に服していた私の心に、彼女はすうっと入ってきました。真夜中から朝方までの長電話。一日に八枚を越す手紙。即、返事をしなければ、おもいやりがないとなじられます。私は、またよい子の行進曲に組み込まれました。
ススメ、ススメ、兵隊ススメ。リアリー・シンは、私に際限なく武装解除することを求めました。自分は硬い装甲に守られたまま、私に裸になれと強要しました。私は、脱げない鱗のことを、彼女に謝り続けました。
どうすれば彼女が満足して呉れるのか訊きました。リアリー・シンは、云いました。梵天瓜。それはあなたが自分で見つけることよ。ほんとうは、リアリー・シンにだって、自分の求めていることがわかっちゃいなかったのでしょう。
リアリー・シンは、私という玩具で、ヒマ潰しをしていたに過ぎないのです。その通りだ、とイバラが云いました。そして、
「僕はきみになにも求めない。きみは、まるで脚の悪い猫みたいに、ここにいて呉れるだけでいいんだ。」
と、云いました。
私は、そんな言葉は信じませんでした。どうせ、きみも、そのうち純真な友情だの、愛情だので、私を責めはじめるのでしょう。それでもいいんです。それまでの短いパラダイスを楽しめれば、それで。
2008年9月15日号掲載