いつまでそうしていられるか、ダウジングしましたが、正確な数値が出ません。百年後にもこうしていますか、と問うと、トルコ石は右回りのイエスを示すのです。そんな馬鹿な話ってありません。やはり、私のラピスラズリがなければ、駄目。でも、あれは、真罪さんが肌身離さず保管していることでしょう。
いっそ真っ向対決して、取り戻しましょうか。真罪さんを罵りましょうか。従順な奴隷をやめた私を、彼女は見限る筈です。飼い犬に手を咬まれることほど、腹の立つことはありませんものね。でも、私には、覇気が不足しています。
「え、なんだって、」
「否、私には覇気がないなあっておもったの。」
「僕にもないよ。」
「そうだね。」
私たちは、声を出さずに笑い合いました。電車が通り、アパートは振動し、私たちの笑いはこまかい揺れに吸収されて消えます。
ほんとうに、私たちには、生きるという気分が欠落していました。きみは、マルクスエンゲルス全集を枕に、眠りはじめました。私は仕事に出掛けました。鍵なんか掛けません。通帳はいつでもコートの内ポケットに入っていますし、きみも盗られて困るほどのものはなにも持っていませんでした。そう、命さえ。イバラは、奪われるべき命さえ持っていなかったのです。
私たちは、剃刀の刃の上を歩くように、危ういバランスを保っていました。重心がちょっとでも狂えば、奈落の底に真っ逆さま。きみは、ラピスラズリを四十円で買ったと云いました。そんなに安いラピスなんて存在しません。
でも、私はニセモノの上にニセモノを重ねるような、今の暮らしに落ち着きつつありました。
新年がやってきて、きみも私も、蕎麦とも餅とも縁がなく、ラーメンライスをすすっていました。ラーメンライスとは、ご飯の上に、インスタントラーメンをかけたものです。学生の食餌の定番です。きみは、相変わらず各党派別の立て看造りに忙しいようです。
今年も、革命の嵐が吹き荒れそうです。私は寺山修司がキライです。太宰が好き。軟弱なんだと自分でもおもいます。マンガの登場人物の葬式を出してしまうような、寺山修司の神経は、私には面白くも可笑しくもありません。ただ、醜悪だと感じるだけです。
いい大人が。なにをやっているんだ。なにをやってやがんだ。私は、キャラメルをほおばって、畳の上でゴロゴロしています。服装は派手になりました。タッチのお客と、店の外で売春もしました。そのお客は学生で、尿道と膣を間違えるという悲惨な人でした。
私は痛かったけれど、それより笑いが止まりませんでした。馬鹿野郎です。女を抱くなら、それなりに格好をつけてからきて欲しいものです。その話をすると、きみは、僕らの性教育は貧弱だからね、と云いました。ほんとうに、貧弱です。文部大臣さまは、なにを考えていらっしゃるのでせう。否、これは厚生省の管轄でしょうか。私もわからなくなってきました。
カルモチンを、安い酒で飲み干す方法を憶えてから、私の生活の乱れには、いっそう拍車がかかりました。最悪のときには、覗き部屋で小便をしてしまい、たいそう叱られました。罰だと云って、犯されました。別に、減るものでもないし、私はじっとしていました。
指輪をいつでも嵌めているので、きみは私のおもいでの品物だとおもっているようです。私は、指輪をいつつ繋げたり、バラしたりできます。知恵の輪みたいだね、ときみは感心します。
「付き合いの長い指輪だからね。色んなことを憶えるわ。」
私が死んだら、きみにこの指輪をもらって欲しいな。きみの痩せた指になら、きっと嵌るとおもうから。私が云うと、きみはさみしそうに笑うだけです。もらうとも、もらわないとも云いません。私はきみの、そんなところが好きでした。
確約できることなど、なにもありはしない、というのが、きみと私の持論でした。だから、私たちは、約束も、待ち合わせもしたことがありません。そんな、さみしんぼうの、ふたりでした。
ああ、よい子の行進曲が頭から離れない!
私は、まだ何処かで、リアリー・シンや、両親に頼っているのです。あちら側に戻ろうと、夢がささやくのです。忌々しいので、いつもより多目にカルモチンを飲みました。
気がつくと、病院のベッドの上でした。私が起き上がろうすると、看護婦が三人がかりで押さえつけました。私がさらにもがこうとすると、注射を打たれ、また意識がなくなってしまいました。
次に眼が醒めたときには、ひとりでした。私はゆっくり起き上がり、尿道に挿入されている、バルンカテーテルを引き抜きました。看護婦が飛んできました。
「あなた、お家は。」
「ぐりーねはいむ、です。」
「あそこは、空き部屋よ。嘘ぢゃなくて、ほんとうのお家を云いなさい。」
「だって、あそこにイバラと住んでいるんだもの。」
看護婦はいったん引き下がりましたが、すぐに戻ってきました。
「イバラさんは、暁部隊の襲撃で、一年前に学生会館で死亡しています。あなたは、空き部屋にこっそり住んでいたのね。」
「ちがいます。イバラと一緒にいたんです。」
「あなた、彼の恋人?」
「いいえ。とにかく、ここから出してください。」
「もういいでしょう。」
廊下から父の声がしました。考えてみれば、コートの通帳から私の身元などあっさり割れるのです。両親と、リアリー・シンが、入ってきました。
「ひどい姿になっちゃって。どうしたっていうの、いい子だったあなたが。」
「お母さん。私は、もういい子ではありません。」
「どうして、そんな他人行儀な口をきくの。」
「どいてください。私は、イバラのところに帰りますから。」
「そんな人は何処にもいないのよ。」
私は、天使が私の躯を持ち上げるのを感じました。私はどんどん軽くなって、肉体を抜け出しました。
きみは、家族の後ろに、恥ずかしそうに立っていました。
「みーつけた。」
私たちは笑い合い、初めて抱擁を交わしました。イバラの息は温かく、私は生まれてきたことに感謝しました。
了
2008/08/25
2008年9月29日号掲載