私には、期待しないという新たな感情が備わりました。友だちに期待しない。恋人に期待しない。親に期待しない。
私は、イバラの部屋に居着くようになって、一週間が過ぎるころから、覗き部屋で仕事をするようになりました。曇りガラスに小さな穴があいていて、私が服を脱ぐのを覗く仕掛けです。もっと追加料金を払ったお客には、タッチの権利もあります。私は、タッチがキライでした。たいていの男の手は汗ばんでいて、冷えた私の躯に臭い汗をペタペタとくっつけるからです。
イバラは、早稲田の学生でした。大人びて見えましたが、実際にはハタチでした。イバラは私に性交を求めませんでした。そんな素振りは一切見せませんでした。
「だって、誰が拾った猫を犯す?」
きみは、そう云いました。
お母さん。私を臭い膣からこの世にひり出したお母さん。私はあなたより、イバラのほうに同胞意識を感じます。私は甘えていません。カルモチンには甘えていますが、薬はジョウを持ちませんから安全です。
イバラは私を同志だとも、恋人だとも口にしません。私ってなんなの。尋ねるたびに、拾った猫、と応えます。私はイバラにおもわず気を赦しそうになってしまいます。不可ません。イバラだって、ジョウをたっぷり詰めた人間なのですから。
私が愛するのは、人外のもの。カルモチンの白い錠剤。しかし、この薬は苦いですね。最初に噛んだときは、嘔吐してしまったものです。
イバラは、たまにハイミナールをやって、バタンと倒れます。私はイバラが倒れる音を背中に、覗き部屋に仕事にゆきます。私には、タッチの常連が幾人もできました。厄介なことだなあ、とおもいながら、私は何処でもかしこでも、好きなように触らせています。
「こういうところの女の子はブスが多いんだけどさ、おまえは見られるね。」
「ありがとうございます。」
あっかんべえ。おまえのハゲ頭が臭くて失神しそうなんだよ、こっちは。
私は、左手の中指に、五連の指輪を嵌めています。形はいびつ、銀、銅、スズの、卑金属でできた安物ですが、大切にしています。
これは、薬のやり過ぎで、去年死んだ知り合いが、何故か私に形見分けするようにと周囲に公言していたため、手元に巡ってきたものです。
「ねえ、私が死んだら、この指輪、きみにあげるわ。」
「それは、ありがとう。でも確約はできないな。」
イバラは、真面目に応えました。私はイバラのこういうところが好きです。もう、心の中に誰も入れないと誓ったのに、イバラと話していると、イバラがどんどん私のなかに食い込んでくるのがわかります。まあ、男と女なんてそんなものかもしれません。きみと、つまらない結末になっても、落胆しないこと。それだけを肝に銘じておけば、たいがいのことはへっちゃらなのではないでしょうか。
「どうしてジュリーのポスターを貼るの。」
「好きだから。」
「ホモなの。」
「うん。肉体的にはホモで、精神的にはヘテロなんだ。」
「複雑なのね。」
「僕はきみに恋をしているけれど、手を繋ぎたいという衝動すら湧かないんだ。」
「男と寝るの。」
「そういうこともある。」
「面白い?」
「なにが。」
「私はね、ラピスラズリに恋しているの。鉱石と薬があれば、あとは、うん、もうなにもいらないわ。」
「実は、クリスマスプレゼントがあるんだ。」
イバラは、小さな紙袋を私に呉れました。私があけると、青い石が転がり出てきました。
「ラピスラズリ。プレゼント。」
それは、トルコ石でした。ラピスより、白茶けた、つまらない石です。でも、そのときの私には、中東の空が見えました。だから、
「ありがとう。大切にするわ。」
と、感謝しました。トルコ石は汚れやすいし、ラピスの濃紺に比べれば、ハッキリと見劣りがするのですが、薄い水青を眺めていると、アラビアの風の匂いがするようで、私は満足でした。
さっそく、ダウジングを開始します。ペンダントのチェーンで石をぶら下げ、ぴたりと静止させます。それから、占いをはじめるのです。私とイバラがセックスすることはありますか。左回り、ノー。それだけわかれば、もういい。
私はペンダントを首から架けて、湿気た布団に潜り込みました。イバラも私も、背中を向け合って眠ります。まるで、誕生を待つ、エンブリヨのように。
私たちは、よく夜明けまで眼をひらいたままでいることがありました。そんなとき、きみは、森田童子の歌を小さな声でくり返し歌っていましたね。私には、ハスキーなきみの声が、本物の森田童子の声のように聞こえてきて、「自殺しなけりゃあ、自殺しなけりゃあ、」とつぶやきました。私のカルモチンの消費量は増えるいっぽうです。もう、カルモチンなしでは、道も歩けません。安い定食屋の、小汚いテーブルに肘をついて、赤茶の小さなゴキブリが歩いてゆくのを、料理がくるまで凝っと眺めて、この昆虫と私、どちらが先に死ぬんだろう、などと考えました。
私は、ジョウを怖れて、独りぼっちを選んだくせに、もうさみしくなっているのです。リアリー・シンの、甘ったるい声に餓えているのです。
彼女のもとに戻ったら、また蟻地獄の日々が待っていると知っているのに。今から百年後、私たちの名前を知る人は、誰もいないでしょう。革命なんかは起こらないし、皆、就職が決まったら髪を切って、背広を買うんでしょう。
でも、イバラだけにはその気配が感じられないのです。上手く云い表せませんが、きみは、まるで生命力というものから隔絶しているように見えました。だから、私は、誘いました。
「ねえ、私と死なない?」
「否、僕には死ぬことすら赦されていないんだ。」
「なんの罪を犯したの。」
「弟殺し。川のなかで脚を引っぱったんだ。」
「嘘でしょう。」
「ほんとうの話さ。別に信じなくていいよ。」
信じなくてよいというのが、逆に私にそれが真実であると確信させました。弟を殺した、半端な革命家。それがきみです。
小学生のころ、私が誠実よい子の行進をしているとき、きみは自分の弟を殺していたのです。
「きみの田舎は何処。」
「高知。もう、戻れないなあ。」
イバラは、別段さみしそうでもなく、そう云って電熱器に手をかざしました。私も、凍えた手をかざしました。
電熱器には、チャーハンが跳ねて、断線した箇所がいくつもあります。きみはチャーハンが好きでした。私も、きみの、米に卵を絡めて炒めるチャーハンが気に入っていました。私たちのおもいでは、湿気た布団とチャーハンに集約できるかもしれません。なんとも貧乏くさいのですが、仕方ありません。
恋愛ごっこをする訳でもなし、革命論を語り合うでもなし、私たちは世界の隅で膝を抱えて、ちぢこまっていただけなのです。
2008年9月22日号掲載