カイエは部屋をあちこち動き回り、コフィの残像を探そうとした。だが、スーが半年住んだ部屋には、ミュルが発生しているだけで、コフィの名残は見つからなかった。

 カイエはミュルを残らずダストシュートに棄て、アトリエに入った、コフィのパレットには、赤や黄の絵の具が残っていた。カイエはそれを洗い流した。ふと視線を感じて壁を見上げると、コフィのデスマスクが掛かっていた。

「やあ、コフィ。待ったかい?ごめんね。」カイエはデッサンをはじめた。レモン石鹸のある洗面所を画いた。レモン石鹸は黄色いが、青く画く。白抜きで、レモン石鹸、の文字が入る。

『流してしまいたいのは、おもいでぢゃないでせう。時刻表を無視して手を洗ひ続ける。』

 カイエは五連の指輪を、左手の中指に嵌めている。絵が完成すると、指輪を凝っと見た。「コフィ、あんたの指輪、約束通りもらったよ。僕が死ぬときには、スーにあげよう。いいよね?」

 デスマスクの口元は、笑っているように口角がやや上向いている。

「メェ。奇妙な絵だ。こんなのが高値になるのか。世の中ふしぎだな。」

「カイエはわざと遠近法を無視したり、デッサンを狂わせたりしている訳ぢゃない。でも、見る人は、画き手はすべて承知の上で狂わせてるとおもうから、価値が出るのさ。」

「僕は裸の王様か。」

「その通り。」

 ミュルがわいている。カイエは、根気強くひとつずつ集めてゴミ箱に入れ、ダストシュートに棄てる。ミュルは音もなく暗闇に落ちてゆく。まるで人の意識が消える瞬間のようだ。コフィも死ぬときはあの闇に呑まれたのだろうか。僕の番がきたら、僕にも暗闇が用意されているのだろうか。

 冷凍庫に、ホットケーキがぎっしり詰まっていた。

「コフィ、」

 コフィはカイエが戻ってくるのを待っていたのだ。カイエはホットケーキを電子レンヂで温め、メイプルシロップをたっぷりかけて食べた。コフィとの生活の味がした。甘くて、とろけそうだった。

 カイエは、珈琲の淹れかたのレシピが冷蔵庫に貼ってあるのを見つけた。

「でも、僕は珈琲は飲めない。」

 仕方ないので、ココアを飲みながら絵を画くことに決める。アイスココアをピッチャーいっぱいに作って冷蔵庫に入れ、アトリエに入った。

 絵は、どんどん売れていると、スーが云った。スケッチブックの絵のことだ。

「Kって誰だ、って噂になっているわよ。フロックコートはわざと身元を伏せているわ。彗星のように現われた、新進気鋭の画家。どう?気分は。」

「コフィと僕の生活が、外の世界に散逸してゆく。最後はなにも残らないだろうね。」

「画けなくなるってこと?」

「そう。」

「どうするの?」

「死ぬ。」

 カイエはあっさり云った。

2009年4月20日号掲載

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