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3.

 結局、大家の息子というのは、髪の毛の薄い中年男で、身なりはラルフローレンのスーツだのカルチェの時計だのと、いかにもいかにもなのだが、帰宅して着替えるとトランクスで家中うろつきまわるし、しょっちゅう響きわたるおなら、風呂の鼻唄というオヤジ全開ぶりで、家でカジュアルな服を着ていても一分の隙もないキャリアウーマン風の奥さんにたしなめられている様子が伺えて、それはそれでほほえましく幸せそうだった。
 この男が、かつて地方出身のうぶな店子の女の子に軽い気持ちで手を出して、女の子のほうも都会育ちの男に夢中になって、いっとき恋愛関係を結んだものの、結局うまくいかなかったという、それだけのことなのだと。はやりのエリアのそぞろ歩き、マップ片手のグルメ散策、そして記念の一泊旅行。そのうたかたじみた恋の終わりに何かを学ぶ前に、傷心を蹴飛ばして新しい一歩を踏み出す前に、唐突に途切れた生。
 それが、しばらくの間、こっそりとことあるごとに隣家を観察していたすずねの結論だった。
 十数年前かどのぐらい前かはわからないけれども、隣家の主人が昔いかにかっこよかったかをあれこれと想像して、悦に入っていたすずねが、ところで、と清里行きを口にしたのは、例のドロボウに入った日から二週間ぐらいたった日だった。

   ちょうど夏期休暇に入る直前の前期試験中で、そのころまでには、周囲は何とはなしに要とすずねをカップルとみなすようになっていたが、いまだ決定的なことは何一つ起こってなかった。
 高価な器で自家焙煎のおいしいコーヒーを飲ませるという大学通りの喫茶店でノートを写させてもらっていた要に、ジノリのカップを持ったすずねは言った。
「例の、毛糸玉の、そろそろ行こうかな、と思うんだけど。カナ君、バイト、八月からだって言ってたでしょ」
 当然のように二人で行くのだなと要は思った。そしていよいよかなと、水色の女の子には悪いけれども、すずねとの関係が一歩進むのではないかと、そちらのほうのことを要は想像した。
「それでね、もう泊まるとこ、とっちゃった」
 とすずねが差し出したパンフレットを見ると、それは「県立青少年自然の家」のもの、読むと男女別室だという。
「なーんてね……」
 シャープペンシルを宙に浮かせたまま惚けたような要の顔をまじまじとみきわめてから、あらためてすずねは雑誌を取り出した。
「冗談よ。見て。これこれ、素敵でしょ」
 すずねが差し出したページにはマーカーで大きく丸をつけてあって、そこで紹介されている宿はすずねの好みを如実に表している。
 <イングランドの農家を移築して>
 <客室はロマンチックな四柱ベッド。ラベンダーの香のする上質なリネンは素敵な夢を見せてくれるでしょう>
 <家具は十九世紀イギリスのオークのアンティーク>
 <フレッシュな乳製品と自家製ハーブをふんだんに使った食事>

 

 

 

 

 

 見ると、草原の真ん中に灰色の石積みに幾つも煙突の立った白い窓枠の建物とともに、渋い色合いの室内や真鍮と白い陶器のバスルーム、さまざまな料理の写真が載っている。
「すずちゃん、あいかわらずしぶいねえ」
 要は照れながら言う。
 会社の保養所や学校の寮が点在し、天体観測のメッカとして知られるつつましやかでストイックな高原地帯だったその地が、風格のある別荘地だった軽井沢とともに、ソフトクリームのようなハラジュク的な場所に変貌を始めたばかりのころだった。
「だって、せっかくカナ君と行くのなら、と思って」
<カナ君と> というところが意味ありげに聞こえたのは、要の思い込みだろうか。
 要は生返事をすると、猛烈にノートを書き写し続けた。

 八ヶ岳の麓のだれもいない夕暮れの草の丘をほどけながら転がり落ちていく毛糸玉を二人で見送って――
「こんな簡単なことでいいのかなあ」
「いいの、いいの」
 ブリテッシュカントリー調のプティホテルで、要とすずねは二つの夜を過ごした。ラベンダーの香とちょうどよくぱりっとしたシーツに包まれて、明け方まで及んだそれは、神さびた「まぐわひ」に近かったかもしれない。
 体を重ねながらも要は、甘い思い出の地についてきた水色の女の子が後悔の衣を脱ぎ捨てて二人にまとわりつくようして見守っている気配を濃厚に感じていた。けっしてもう不思議な現象が起こることはないし、部屋の住人にちょっかいを出すようなことはないだろうけれども、彼女はどうやら二人のそばにいつくつもりらしかった。ただしすずねにはとりあえず言わないでおいた。

(了)

 

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