資本主義とは何か? 資本主義とは交換である。交換がはじまるとき資本主義がはじまる。労働によってみずからかちえたものが、直接自分の口に入るときよりも、交換をへるとよりその量が増えその味が甘くなると感じたとき資本主義がはじまる。どうやればそんなことが可能になるのかは、いろんな本を読め。地理的差異の搾取? その他いろいろ。そんなことはどうでもいい。大切なこと。資本主義の主体は誰か? それは資本家であると誰もが考えた。ぜんぜんちがう。資本主義の主体は、そのオペレーターである。(つまり商人、現在でいうとホワイトカラーである。)資本主義の快楽は、交換を通じて手持ちのもの(財)が量を増し味が甘くなることを直接その手や舌で感じることにある。ふんわりと、ザラメ砂糖が火にかけると膨れるように、財は膨れる。その喜びによって資本主義は生きる。
資本主義がなければ、つまり交換がなければ、きみの目の前にある石榴はいつまでたっても赤黒い表皮の裂け目から光そのもののような果肉をはみ出させている生々しく丸くやわらかくすっぱい固体である。つまらない。そこには価値がない。ところが異郷の鬚の濃い言葉の通じないへんなやつ(オポチョトーリオとかそんな名前。眉も濃い)に石榴を見せたところ、オポチョトーリオの金壷眼がにわかに輝きだした。それから?その他いろいろ。
マルクスやエンゲルスが生きた時代、資本主義は最悪の時期を迎えた。なぜなら、そのちょっと前に起こった産業革命は、人間を商品生産の道具にすることをきわめてたやすくしたからである。農業社会でも、もちろん似たようなことは起こっていた。農耕は機械制生産の母体であり、資本主義生産の母体である。しかし大切なこと。農耕はオペレーターの能力を十分に発揮しえる舞台ではなかった。どんなに優秀な奴隷をたくさん使おうとも、ちょっと天気が悪かったりすると、オペレーターがどんなに頑張って知恵を絞ったって、取れる麦の収量は少なく、悔しいのである。ああ、悔しい。そこで大切なのは、宗教であった。雨乞いであった。
産業革命において、人間は人間を生産手段にすることにより、雨乞いなどに頼ることなく、商品を、つまり交換目的のために特化された財を、操作的に生産する手段を手に入れた。そこで生まれた事態は何であるか? 人間の分裂である。十九世紀の産業資本主義は、オペレーターと、オペレートされる人間とに、人間を二つに分かった。その分裂状態を目の当たりにして、マルクスやエンゲルスは、「階級」という概念を創造した。階級とは、なかなかいい線をいっている概念だが、さりとてこれは超歴史的な概念ではない。
(ここで注意。「人間の分裂」という事態が生じるためには、「人間」という概念がまず確立されていなければならない。そこには、キリスト教から啓蒙主義に至る人間概念の発生と確立というもうひとつのイデオロギー的な線があり、それと生産諸条件の発達というもうひとつの線との交点において、初期産業資本主義の悲劇および社会主義の発生があったということを意識しておかなければならない。奴隷社会ではもっと過酷な労働条件が存在したが、それは人間的問題にはならなかった。)
さて、初期産業資本主義でのオペレーターとは、最初のうち、資本家本人であった。しかし資本主義生産が拡大しオペレート作業が煩雑になるにつれて、分業が生まれた。財を所有しその財を適切なオペレーターに投下する(間接的なオペレートを行う)資本家と、直接的にオペレーションにたずさわるホワイトカラーと。その分業である。そして、資本主義の本当の快楽を享受している人間は、後者なのである。ここは間違えてはいけない。例えば、なぜ今日の先進資本主義国の労働運動が低迷しているのか。それは、階級の分け目を賃金を支払う人間と受け取る人間と(生産手段を所有する人間と所有しない人間と)に分けてしまったことにある。その錯誤の原因は、資本主義の原初の動機を(快楽を)読み違えてしまったことにある。ホワイトカラーとブルーカラーとは、実は階級的利害をまったく異にしている。資本家の側に残された蓄財という快楽は、一人ひとりの人間の実存には関わりのないものであるがゆえに(機械的労働とそれは似ているのか?疎外された労働に対する疎外された交換?)、労働の喜び以上にそれは簡単にバラバラにされてしまった。今では、先進資本主義国の労働者の大半は資本家でもある。資本家は人格ではなくなった。人格として残って、テレビドラマで不倫物語の主人公になったりしているのは、オペレーターつまりホワイトカラーである。(不倫物語の主人公は、最初は王だった。つまり貴族。聖別された人格。それから世俗化が進み、主人公はブルジョワになった。今では主人公はホワイトカラーである。しかし、プロレタリアートは、つまりブルーカラーは決していつまでも主人公にならない。プロレタリアートは、プロレタリアート文学とかいうものの中においてさえ、主体ではなく、悩めるブルジョワの主人公の手持ちの小道具のひとつでしかない。)
オペレーターは、直接その技能が問われる。そのためのさまざまな技術が開発された。テイラード・システム、科学的管理法、TQC、TQM、その他いろいろ。さぞ、やりがいのあることだろう。
しかし資本家は、今日でも技術をもつことができず、雨乞いと似たような直感に頼っており、超能力の研究をしたりなんかして、その現状を「オカルト資本主義」などと揶揄されたりしているのである。
先進資本主義国にあっては、資本家の主体的役割がコンピュータや金融工学にとって替わられたのと同じように、ブルーカラーつまり生産手段と化した人間は、ロボットなどの機械にとって替わられつつあり、従来の資本主義の問題、労働問題や労働現場における人間疎外といった問題は、少なくとも一国内の経済体制の中ではアクチュアルな問題性を失いつつある。いまここで問い直すべきなのは、資本主義の最初の欲望が、先進資本主義国のホワイトカラーたる私たちの身体の上にどう現象し機能しているかということなのだ。だからキーワードは「生産」でも「消費」でもない。問題は「交換」である。交換、すなわちコミュニケーション、恋愛、他者との出会い、言語、その他いろいろ。そんなようなもんを、何となく扱っているのが、あの、あまりいけ好かない「社会学」というものなのだろうか?
皆の意見、反論を待つ。(護法)