資本主義について

怖い顔

多すぎる

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魂の本屋

ヤクザのように怖い顔をした人が実は優しい性格だったりすると、「人は見かけによらないものだ」といって驚いたりする。でも本当は、ヤクザがヤクザみたいな顔をしていることに驚くべきではないのか?

こいつは優しそうな奴だ、乱暴そうだ、酒が好きそうだ、カネに汚そうだ。顔を見れば、そいつの性格はだいたい見当がつく。精神的に荒んでいる奴は、だいたい荒んだような顔をしている。話をしてみると、やっぱり失恋に打ちひしがれている最中だったりする。顔を見れば、そいつの性格や、そいつが置かれた社会的環境、情緒的環境などが分かる。これは当たり前のこと。いつもそうやって生活してる。でも、なんでそれが分かるのか、いったん考えはじめるとさっぱり分からなくなる。

実はこれは哲学では表情問題とか表情現象の問題とかいうらしく、廣松渉『哲学の越境』(勁草書房)の巻頭には\情体験的世界からの再出発ある。(ヘンな題。)それによれば、カッシーラーやメルロ=ポンティも同じ問 題を論じているらしい。 廣松はこの表情問題を、顔の表情だけでなく、風景や モノの佇まいから受 ける印象なども 同じ問題ととらえて、アフォーダンス理論のギブソンなどを引用しながら、ワープロでは出ない難しい漢字をいっぱい使って論じているが、それらの本はどれも読んでいないので、とりあえず無視して独自に考察を進める。

なぜ性格と相貌が一致するのか。人の顔の印象というのは、例えば眉間にシワが一本寄っていただけでもガラリと変わる。ある人、その名はオポチョトーリオというが、そいつが女狂いをはじめ、一晩で何人とやら、そうするといかにも女好きそうないやらしい顔になったとする。そのいやらしそうな印象の原因をオポチョトーリオ(以下オ氏と略記)の顔面に探っていくと、鼻の脇にいつの間にか寄るようになったイヒヒという感じの小ジワにあったとしよう。

もちろん、表情から受ける印象というのは相手の顔の総体に起因するもので、小ジワのような個々の要素に還元できるものではない、という意見もあるだろう。しかし、例えば人の顔を絵に描いているとき、ひと刷け余計な筆を加えたばかりにガラリと表情が変わってしまうのはよくあることだ。だからここでは、あくまでオ氏の新たに出現した小ジワがそのいやらしい印象を決定付けているということにしよう。おお、それでは、問わねばならない。オ氏の女好きという性格、あるいは村の後家すべてに手をつけてしまったといった女狂いの社会環境が、どうやってオ氏の鼻の脇の肌の上に隆起と陥没を生じさせ、シワというれっきとした物質的実在をつくりだすことができたのだろうか?

こういう問題もある。中学のとき中川君という友達がいて、1年生から卒業までずっと仲良かったのだが、2年生になったあるとき、へんなことに気づいた。耳(外耳)というのには、ふつううねうねとした複雑な隆起が見られるものだが、中川君の耳は、外側にお盆の縁のような隆起があるだけで、内側はお皿のようにツルツルだったのだ。中川君はエイリアンだったのだろうか。とにかく、付き合いはじめて1年もたつのに、なんでそんな重大な特徴に気がつかなかったんだろう。優等生の中川君は、長髪ではなく坊ちゃん刈りで耳をいつも露わにしていた。それなのに気づかなかったのだ。

村上春樹の小説に、世界一の耳をもった女に惚れるというのがあった。でもふつうはそんなことはありえない。耳は、ふつう、その人のキャラクターを決定づける要素になりえない。福耳というのがあるが、あれはおそらく顔の正面から見て耳が大きく突き出しているということのみを捉えて言っているのであり、例えば江川の耳が大きいことは誰もが知っていても、その耳の細かい形を覚えている人はいないだろう。

例えば中川君の耳が頬についていたとしたらどうだろう。それは、瞼が一重だったり二重だったり、小鼻が膨らんでいるとかいないといった特色より、もっと大きく中川君の顔の印象を、つまり彼のキャラクターを左右していただろう。それほど彼の外耳は特異なカタチをしていた。しかし、そうはならなかった。耳は、目や鼻から10センチ程度しか離れていないのに、表情を決定付ける要因になりえないのだ。

このことは、表情を見るとき、正面から見た顔の図というのが特権的なものであることを教えてくれる。つまり、表情といったものを読み取るとき、人の認識の空間はニュートン的な均質な空間ではない。そこまで聞けば誰でも思い出すだろう。生後間もない赤ん坊は、目の前で正面を向いた人の顔を見ると「虫笑い」するという。この虫笑いという現象も、表情問題にとってとても大切な問を突きつけているのだが、ここでは取り上げない。

オポチョトーリオの女狂いがなぜシワを発生させたか。もちろん、この問はデカルト的な心身二元論的な考え方に基づいている。でも、だからといって、デカルト的な図式から逃れればこの問題は解決する、といった簡単なものとは思えない。マルクスは、宗教批判がいちばん大切だと考えていたヘーゲル左派に対して、それは水に溺れている人に「重力の観念から脱すれば水に溺れないぞ」と言っているに等しいと批判したが、そもそもどうやったらデカルト的な考え方以外の説明が可能なのか。どうすればオ氏の後家漁りを止めさせることができるのか。なぜ俺の顔はこんなに二枚目なのに写真に撮るとへんな顔なのか。

ここでこの考察は(考察にも何にもなっていないが)いったん終わりにする。続きは誰か考えてくれ。考察が中途半端に終わったのは残念だ。それから、せっかく設けた「オ氏」という略称をあまり使えなかったのも残念だ。

(護法)

護 法 p r o f i l e