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一般的にマンガでの文字の多さは、絵では語りつくせない作者の主張があってのことである。しかし、作者の主張それ自体に一読の価値はあっても、もはやマンガとしての意味をあまりなしていない場合も少なくない。そういうものは小説や思想書で十分なのだ。やはりマンガは、絵の持つ魅力を欠いてしまえば敬遠されてしまう。
そんな中でこの『神聖喜劇』は、すでに独自の地位を築いたと言ってもいい。本作はまぎれもなく大作・怪作である。確かにその圧倒的な文字量ゆえ、読者からは敬遠されもしよう。実際にぼくが初めて読んだ感想も「これで6巻も続くのか、勘弁してくれ…」である。恥ずかしい話だが、『神聖喜劇』が一体何か知らずに読み始めたのだ。しかし読み続けていると、この世界に引きずり込まれている自分がいた。ここには不思議な魔力がある。
本作は、軍隊内でまかり通る強権に対し、補充兵として徴用された主人公・東堂太郎が抜群の記憶力で上官たちと論議を尽くす物語である。その光景は、マンガで親しんできた“言葉にならない想い”や“行間からにじみ出る雰囲気”とは対極をなすと言っていい。徹底的に抗弁し、論理を尽くす。そうせねば、軍規に基づくとはいえ牽強付会な論理で下士官を支配する上官たちとは対等に渡り合えないからだ。
主人公も難儀な性格である。考えてみれば強大な支配下にあって、なぜそこまで抵抗するのか。村崎古兵の言うように「バカンマネ」をしていればいいじゃないか。だが、これでは順序が逆なのだ。彼は「人生は生きるに値しない」というニヒリズムから、戦局も差し迫る時期に自分だけ逃げすだすことを「偸安(とうあん)と怯懦(きょうだ)と卑屈」と断じ、一兵士として「私は、この戦争に死すべきである」と身を投じる。若さゆえの強情さだろうか。相当に歪んだ動機ともいえるが、体一つで権力に立ち向かう彼の姿は潔くも美しくも見えてしまう。
彼の記憶からつむぎだされる縦横無尽なエピソードと引用。上官らと、警察と、学校と、そして恋する女性とも議論、議論、議論……。一巻の解説で中条省平氏は本作を「ディスカッションドラマ」とも位置付ける。この呆れるほどの議論は、かえってある種の滑稽さを増している。反射的に本を閉じてしまわず、ぜひとも読み進めてほしい。その先にはきっと、この世界に不釣り合いなほどの怪物・東堂の残す面白みと、そして何とも言えない清々しさがあるはずだ。