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「そうですわたしは見たかった/荒ぶる神の怒りをね」
(p152 第2話『妖精名彙』)
人は見えないものに心惹かれる。昔日本では自然のはたらきに神々の存在を感じ、畏敬の念を抱いたという。今でも心霊写真や都市伝説が人々の話題に上るように、あるかなしか定かでないものが非常な興味をもって迎えられる。不可視であることは、未知であることとほとんど同じである。見たい、知りたいという好奇心はいつの時代にも深く根付いている。
今回紹介するのは原作を大塚英志が、作画を森美夏が手掛ける伝奇シリーズ第3弾『八雲百怪』である。時は旧来の制度が一新されようとしていた明治の初め。政府の役人・甲賀三郎の手によって妖怪が消されてゆく様子が、日本に帰化した男・小泉八雲の視点から描かれる。
前2作品『北神伝綺』と『木島日記』でもそうであったように、本作の魅力は“見えないもの”へ迫ることにあった。折口信夫や柳田国彦など実在した人物が登場するが、両名とも明治という時代の変わり目において活躍し、そして日本文化に関心を寄せた者である。“見えないもの”とはすなわち、日本に伝わる伝説や怪異のたぐいのことだ。明治という新しい時代の到来に伴い、そういった実在するか分からない不確かなものを消し去る、という行為は確かにあったのかも知れない。当時急速に流入した西洋文化がそういう性質をもっていただろうことも容易に考えられる。
ここでぼくは何とも不思議な感慨にとらわれた。それは主人公・小泉八雲への共感とも言うべきものだ。八雲は日本に帰化した外国人であり、日本との間には決定的なまでの大きな溝がある。とはいえ、古来からの伝説や怪異を見たい、知りたいという思いは人一倍強い。野次馬根性とも言うのだろうか、この旺盛な好奇心は「当事者」ではないからこそ強いのかもしれない。「傍観者」という位置にとどまり続けるであろう八雲の姿は、このぼくにとても親しみを抱かせる。
例えば、霊感を持っていない自分。例えば、現代という時代に生き、伝説や怪異からは引き離された生活を送る自分。“見えないもの”が見えないのは確かに当たり前のことではあるが、“見えない”ということがかえって、憧れの想いを抱かせるのである。だからぼくはしばしば目を瞑っては、夢や幻想の世界に手を伸ばす。“見えないもの”を見ようと、ささやかにも必死な試みを繰り返すのである。
『北神伝綺』と『木島日記』では、現実と虚構の狭間にいるような存在が中心となって物語が語られていた。彼らにはそこにいなければならない必然性があり、それゆえの悲壮感があった。しかし今回の『八雲百怪』では、傍観者の位置にあり続ける八雲という存在が中心である。そのためか、どこかしら前作よりも呑気さがただよう作風ともなっている。シリーズも3作目に至って洗練さが増したこともあり、本作はより私には読みやすさの感じられるものと映った。