text/引地 正
永井隆は長崎医大放射線額の助教授として被爆したときにすでに放射線障害者と診断されていた。彼の著した2冊のベストセラーには、クリスチャンであった彼の、初期の放射線医学者としての運命が象徴されている。
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この年一月、新興・復興の出版社の業務開始が多く、出版社数は4581社と史上最高を記録した。ところが、3月に日配がGHQにより閉鎖機関に指定され閉鎖。代替機関として9月に東販・日販その他、東京に4社、地方に5社の取次ぎが誕生して、出版流通の戦後は終わって新しい時代を迎えることになった。
しかし、前年12月にアメリカで決定した対日政策「経済安定九原則」にもとづくドッジラインがひかれ、赤字財政の追放・徴税強化・復興金融公庫融資の中止・市中貸付金の回収等が実施されることになって、デフレ不況が深刻化することになった。とりわけ出版界では、流通体制の混乱でいっうそう不況が深刻化して、一月に史上最高を数えた出版社数も暮れには相当数が倒産・休業してしまった。
さらにこの年は、諸勢力による戦後政策の対立の激化を示す事件が続発した。
下山事件、三鷹事件、松川事件、教職員のレットパージ、光クラブ事件等である。世情は決して平穏ではなかった。しかし、ベストセラーをみると、戦後のというのはわれわれも含めてだが、耐えがたいものから逃れるようなペシミズムが溢れていたように思われるのである。
この子を残して |
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永井隆 |
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講談社 |
風と共にさりぬ |
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ミッチェル |
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三笠書房 |
共産主義批判の常識 |
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小泉信三 |
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新潮社 |
長崎の鐘 |
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永井隆 |
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日比谷出版社 |
平和の発見 |
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花山信勝 |
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朝日新聞社 |
細雪 |
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谷崎潤一郎 |
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中央公論社 |
親鸞 |
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吉川英治 |
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世界社 |
石中先行状記 |
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石坂洋次郎 |
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新潮社 |
哲学入門 |
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田辺元 |
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筑摩書房 |
前年につづいて、永井隆は二冊のベストセラーをだしている。年譜によると彼は、長崎医大の助教授時代に長崎で被爆、妻は爆死している。永井は重症の身で救護にあたるが倒れ、以来、病床にあってこの二著を書いたようである。彼はクリスチャンであるが、クリスチャンであることがこの本を書かせたのか、子を思う親心がこれを書かせたのか、それはわからないが、その姿の切なさが、この本を読ませていたようにもおもえるのである。
彼は、長崎医大の放射線学の助教授として被爆した時、既に、放射線障害者と診断(白血病) されている。彼は以来、病床にありながら、昭和21(1946)年に38歳で教授に就任し、26(1951)
年、43歳で白血病によって亡くなっている。
つまり、この事態には、初期の放射線医学者の運命もダブっているわけである。そう考えると、やはり著者がクリスチャンであったことがこのベストセラーを象徴的にしているのかも知れない。
「原爆投下」という生態系への犯罪が、その著書の中で必ずしも問われたわけではなかったが、その事実を処理する方法――言わばこの事実を悲劇として処理する方法を一つ人々はこの本によって手に入れたと言えるかもしれない。爆死した妻、明日をも知れない病床にあって二人の子供の行く末を心配せざるをえない医学者であり父である身の悲しみは、様々な政治的思惑をこえて「悲劇的」であったに違いないのである。
「長崎の鐘」という歌も、映画も、この頃に作られた。本も数年にわたるベストセラーになるほど読まれたのであったが、読者はたしてその向こうに何をみていたのであったか。
「風と共にさりぬ」は、滅び行くものの美しさを、「共産主義批判の常識」は近代経済学者慶応義塾大学学長にしてこの年東宮参与となった小泉信三の所感は、カオスにたいする一つの回答のような明確さがあった。
花山信勝は仏教学の東大教授の後、戦後、A級戦犯収容所だった巣鴨プリズンの教誨師となり、東条英樹ら七人の処刑に立ち会った。「平和の発見」はその経験を書いたもの。
「細雪」小説家谷崎潤一郎が、戦前から書きためていた原稿を戦後はじめて発表したもので、戦後のかれのベストセラーの始めとなったのが本書である。「宮本武蔵」「親鸞」は前年から続く時代小説、戦後ナショナリズムへの指向を良く著している。永井隆の二つの著書もそうであるが、我々の上に訪れた敗戦という経験も、原爆が投下され、戦犯の絞首刑がされたという経験も、それぞれに処理しなければならなかったわけであるが、当初の世界大戦というインターナショナルな存在から次第に、それぞれのうちなる問題としてあるいは「祖国」のうちなる問題として対処せざるを得なくなっていたのであったろうことを感じさせる。
石坂洋次郎は、始めての登場である。同郷の先輩、葛西善蔵に師事。「若い人」で不敬罪に問われ、奉職していた女学校をおわれて上京、作家となった彼にとって、戦後は、彼の前に初めて開かれたフィールドだったに違いない。以後、ベストセラー作家となるが、その第一作が「石中先生行状記」である。
田辺元は東大を出て、京大に奉職。西田幾多郎と京都学派を作るが、後に西田哲学に対立。戦後派キリスト教に接近したころに書かれた入門書。当時の日本で、政治的に最も安心して「語れる」哲学者であった。翌年、文化勲章受賞。
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