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text/引地 正

アメリカ人というのは、わからない。自分では勝手なことをしておいて、土壇場では神に祈ればいいと言うような精神。その彼らが、原稿料なしで『きけわだつみのこえ』の評を書くとは、やはり信じるべきではなかった。そうつくづくと思わせるようなコラムである。

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「きけわだつみのこえ」が先頃、英訳が出版された。スクラントン大学出版会の刊行である。この英訳を読んだNW(ニューズウィーク)のシニアライター、ピーター・プレーゲンズ氏のコラムがNWJ に載ったので、以下に概要を紹介しよう。現代のアメリカ人がどの様に読んだか。これは、何故いま英訳なのか、と言うこととも関わるかもしれないが。

「1812-15 年の米英戦争を別にすれば、アメリカは国土を侵略されたことがない。約60万人というアメリカ史上最悪の犠牲をもたらした戦争は、一世紀半も前の内戦( 南北戦争) だった。
 第2次大戦では、約40万人のアメリカ人が戦死した。大変な数だが、ドイツやソ連、中国、日本の犠牲者に比べれば桁が少ない。真珠湾攻撃以降は、敵の攻撃による国内の物的被害は極めて限られていた。カリフォルニア沖で日本の潜水艦が弱々しい砲撃を仕掛けたり、ときおり破壊活動がおこなわれた程度であった。戦争の神に甘やかされたアメリカ人は、いささか軟弱になってしまったかも知れない。確かにアメリカの軍隊は、他国にひけをとらない装備と精神をもっている。だが民間人は、戦争のために何かが犠牲になると想像しただけで腹をたてるはずだ。
 第2次世界大戦中は徴兵に我慢していたアメリカ人も、ベトナム戦争の末期には従わなくなった。」

「この本を読むアメリカ人には、いろいろな人がいる。だから私がどういう人間なのか少しだけ書かせてもらいたい。
 私はカリフォルニア州で育った。ここでは終戦前に、太平洋戦線が最大の関心を集めていた。もうすぐ60歳になる私には、かすかに戦争の記憶がある。大好きな叔父は17歳で高校を中退して海軍に志願して、硫黄島と沖縄で戦った。
 私自身は典型的なアメリカ人だ。アメリカ人すぎるくらいかもしれない。考え方はプラクテカルで気が短く、何事も決めつけが早い。物事をやたらと神秘化したり、センチメンタリズムを押し売りされるのは勘弁願いたいほうだ。
 それでも特攻隊訓練生だった杉村裕が、死の10日前に書いた手紙に< 俺の生活の目標は、立派な人間として生きようと言うことであった。さらに具体的に言えば、立派な日本人として生きようということであった> と書いているのを読むと共感を覚えざるを得なかった。日本人をアメリカ人に置き換えれば、私の周りにも同じことを言いそうな人はたくさんいる。
 杉村が書いたような願いに加えて、戦時下の日本人が耐えたあらゆる苦労を思うと『わだつみのこえ』は実に感動的な記録であることがわかる。これは、飲み、食い、眠る生身の自分よりはるかに崇高な何かに最高の忠誠を尽くす人人の記録である。それは日本人全てだったのかもしれない。」

「アメリカの兵士たちは、あの戦争を必要なものであり正義であると考えていた。だが同時に、そうした必要性と日々目撃し体験する野蛮な現実とのつながりを見いだそうと苦闘した。結果、アメリカ人は軍隊というものを、まったく不条理な存在と見なすようになった。
 しかし日本人兵士の場合には、頭のなかの愛国心と具体的な行動とのあいだに、致命的な断絶があったように思える。『わだつみのこえ』のなかでその断絶は、中国への侵略を歴史の前進として正当化する学生の手記や、捕虜を処刑したのは命令に従っただけだと主張し、戦犯として死刑を宣告されたことに抗議する木村久夫の手紙に表れていると思われる。
 この点で『わだつみのこえ』は自己矛盾を起こしている。」

「しかも本の最後には、戦争賛美の色彩の強い手記は、戦後日本に生まれた反軍国主義に逆行するという理由で除外された(つまり検閲だ) と書かれている。実際の断絶は、本書に表れているよりはるかに深かったのだろうと思える。
 もちろん、アメリカ人に落ち度がないわけではない。東京大空襲や広島・長崎への原爆投下は、不必要だったともいわれる(私はそれらが終戦を早め、人命を救ったと考えているが、この点については専門家の議論がつづいている) 。
 真珠湾攻撃の数日後, コリン・ケリー中尉が日本の戦艦に爆撃機でカミカゼ攻撃を加えたと報じられたとき(誤報だった)、アメリカ人は喝采を送った。 アメリカ国内では日系市民が、そのルーツだけを理由に収容所に入れられた。」 

「だが、いずれにしても「『わだつみのこえ』があまりに悲しく、そして恐ろしいのは 収められている手記がかなりまともだからだ。」

 アメリカ人というのは、わからない。自分では勝手なことをしておいて、土壇場では神に祈ればいいと言うような精神。その彼らが、原稿料なしで『きけわだつみのこえ』の評を書くとは、やはり信じるべきではなかった。そうつくづくと思わせるようなコラムである。
 しかし、むしろそのようなものを育んでいるのは、我々の世界であり、われわれではないだろうか。聞けば、1999年現在の好況を支えるアメリカへの諸外国からの投資総額は、IMFによると4.8兆ドルである。日本円にして約 520兆、もちろんその中身は日本だけではないであろうが、ほぼ一年分のアメリカの国民総生産額の60%に近い金を、われわれは投資していることになる。日本の上場一部の株価総額が400兆を割ったのは、今年9月のことであるから、その巨大さがわかろうというものである。
 かつて、結果的にではあるが、貧しい人民どもは貴族階級の生活を支えた。そして、今の人民どもが皇室の生活を見て様々に師範とするように、その貴族の生活をもって貧しい人民どもが叶いがたい生活の師範としたのである。
 現在のアメリカと、その他世界との関係もこれに似ていなくもない。アメリカに投資することが最も確実な投資であり、みなそのように考えることが一層アメリカへの投資を吸引する。その結果は、確実にアメリカは別だ、現代の貴族とまではいうまいが、その他世界への差別感が育つのは当然かも知れない。
 この著者のように、俺は典型的アメリカ人で短気でプラクテカルでセンチメンタル嫌い、神秘嫌い、だからどうしたといっていられるのである。冗談ではない。その鼻息をうかがわなくてはならない、その他世界の人々はどうなるのか。また、世界中の投資期待のもとにあるアメリカは、その責任なるものを考えているのかどうか。
 二年前にロシアのルーブル危機のとき、オペレーションに失敗して破綻した投資運用会社LTCMのオーナーは今でも億万長者で投資運用しているというし、それに参加した二人のノーベル経済学者も学校では重んじられているという。しかし、この時その損を引き受けた、その他諸国はどうなったのだろうか。どうにもならなかったに違いないのである。
 イタリアの中央銀行や住友銀行でさえ、どうにもならなかったのである。                            

(2000.10.2)

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