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三島由紀夫『潮騒』は、東大から大蔵省へ、そしてエリートとして小説家になった貴族趣味の男の書いた、若い漁師と海女の恋など嘘っぽくて読む気になれないというのが正直なところであった。
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[昭和29(1954)年のベストセラー]
この年、出版界は戦後最大の不況に見舞われた。こうしたなかで、前年の文学全集最盛の後を受けて「新書判」ブームがおとずれた。光文社のカッパブックス、中公新書など100円から150円迄の手頃な価額が受けて、光文社等はベストセラー10点のうち4点を占める盛況が一方ではあったのである。 中でも特色をなしたのは、伊藤整で『女性に関する十二章』は30万部近く売れ『火の鳥』『文学入門』などを入れると70万部近くが売れるという盛況であった。今日のベストセラーとは比較することは出来ないが、丹羽文雄の『小説作法』がベストセラー入りをするというきわめてストイックな大衆化が進んでいたのである。 『愛は死を越えて』は,1950 年代にアメリカで起きたスパイ事件の被告となった夫婦の愛を描いたドキュメンタリーである。作者はポーランドの作家レオン・クルチコフスキで彼の代表作となったものである。これによって50年度の国際文学賞を受賞した。事件そのものは、スパイ容疑を掛けられた夫妻は一貫して犯行を否認していたが、疑わしい点を少なからず含んでいたエセル夫人の弟グリーングラスの証言を唯一の根拠にして、51年4月死刑の判決をくだした。その後、この事件は政治的でっち上げであるとする助命嘆願運動が国際的に繰り広げられたが、53年6月夫妻は処刑された。その後、司法省の関係書類の一部が公開されたりしたが、真相が明らかになるには至っていない。 三島由紀夫の『潮騒』は、前評判の高い批評家の評価の高い本であって、三島が描いた青春の理想として評判であった。三島は文学的水準の高い作家であって、大衆文学とは明らかに境界を異にしていたが、読者はそれゆえにこそこの本をベストセラーにしたのだったかもしれない。この本はこの年に東宝で映画となり、ついで64年、75年、85年と四回も映画化されているのである。それ程魅力的なテーマであったと言うことであったろうが、本としては二度とベストセラーになることはなかったから、読者の評価としてはどうだったのだろうか。筆者などは東大から大蔵省へ、そしてエリートとして小説家になった貴族趣味の男の書いた、若い漁師と海女の恋など嘘っぽくて読む気になれないというのが正直なところであった。 『はだか随筆』は、一橋大学教授 (経済地理学) 佐藤弘 (ペンネーム弘人) の随筆集である。この年、初めて経済地理学会が成立して初代の会長に就任している。前年に東京大学教授の兼任を止めて、一橋大学小平分校の主事となっているから学者としての一つの転機に立っていたのであったろうか。洒脱な随筆で、随分と評判になった。二年にわたってベストセラー入りして、昭和29年にはベストセラー5位、翌30年には1位になった。また、経済経営書出版の中央経済社がベストセラーに名を連ねたのもこれが最初で最後であったのではなかったろうか。佐藤教授の著書としても専門分野経済地理学ではもちろん、この部数を越えることはなかったのである。続いてだったと思うが『いろ艷筆』という随想集も出したが、これはベストセラーにはならなかった。 『人間の歴史』は著者安田徳太郎が民間人であって、研究者としてのプロではないと言うことが、読者としての喉に刺のように突き刺さっていたと思う。何故これが読むに値するのか。このような形で人間の歴史を読むには、なにかしらの抵抗があったのは正直なところであった。それがベスセラーになったのには、戦時中に弾圧されたものにたいする信頼感があってのことであったろうが、同時にこの著者には読者を説得するにあたいする価値があったのであろう。 『カロリーヌ』の原作となったのは、ジャック・ローランがセシル・サン= ローランの名前で発表した『いとしのカロリーヌ』(1947 年) である。彼はこれらの大衆小説などを書くかたわら、風刺論文『ポールとジャン・ポール』等でサルトル等の実存主義作家たちを攻撃している。フランスの大衆小説の潮流として、サルトル等の実存主義以後に登場したのが反実存主義の旗印の元に結集した新古典主義グループ「軽騎兵」である。このグループには、他に『忘れはしない』のミッシェル・デオン、社会の落伍者の姿をユーモアまじりのペシミズムの中に描きだす『道草ヨーロッパ』のアントワーヌ・ブロンダン等がいるが、ローランはこのグループの代表者の一人と目されている存在である。戦後世界において、反実存主義とでもいえるグループがベストセラーに名を連ねていたと言うのは、きわめて興味深いところである。 この年度、次年度とも伊藤整の著作のベストセラー進出が目立つ。ちょうど、戦後経済が軌道に乗り、いわゆる新しい形の産業労働者が緒についたころ、或いはつきつつあるころと言うのがこの時代であって、小樽高商から一橋大学に入って英文学者ともなった異色の小説家、かつ東京工業大学の教授でもあった伊藤整にとって、サラリーマンでありながら別の職業をもつ存在、また全くサラリーマンとして生きていく人生というもののありようはきわめて興味深いものだったに違いないのである。いわば、文学というそれまで特殊、天才的であって一般的でなかったものとされたものに、一般的生活者による日常的参入の余地を与えた、あるいは与えようとした面白さであった。 詳細は後述。 |
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