キ ム チ p r o f i l e
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ここまでの議論から窺えるように、マーケティング論批判が目指している射程は、政治と経済の結託の中で、当たり前のように交わされている最近の議論の裏側にある欲望を明らかにすることだ。小泉政権が果たそうとしている「改革」なるもの、それと呼応する中谷巌や竹中平蔵の経済理論、それらは一般にネオリベラリズムといわれるだろう。したがってマーケティング論批判序説はネオリベラリズム批判として語られても良かったかもしれないし、ネオリベラリズムを議論の俎上に載せることはいずれ必要になるかもしれない。しかし、マーケティング論批判序説が行いたいことは、直接的にネオリベラリズムを批判することではなく、いまマーケティング論として語られていること、消費生活や広くマーケットやビジネスの話題として語られていることがどのような背景を持ち、そのことに好感を持ったり反感を感じたりすることが、無意識のうちに何を選び取り、判断していることになるのかを幾分かでも明らかにすることだ。

そこで議論を進める前に(あるいは議論を進めるために)ひとりのタレントを召喚しよう。いまの時代を象徴する人物であることは間違いないであろうライブドア社長の堀江貴文だ。

堀江は文字通り『稼ぐが勝ち ゼロから100億、ボクのやり方』(光文社 知恵の森文庫)という本を書き、その中に「人の心はお金で買える」「会社とは人を使うための道具です」「自己中でいこう」といった「過激な」言葉を連ねる。例えば、「人の心はお金で買える」では、こんな風に書いている。

女はお金についてきます。僕がこう言うと、「そうなんだよね」という人でも本当に理解しているかは疑問です。

たとえばビジネスで成功して大金を手に入れた瞬間に、「とうてい口説けないだろうな」と思っていたネエちゃんを口説くことができたりする。その後は芋づる式です。要するに、ネエちゃんの話を聞いた女の子たちが集まってくるわけです。

金を持つだけで、自分の精神的な考え方も高みに上がります。実質はなにも変わっていないのですが、お金を持っているという現実が一種のゆとりになるのかもしれません。以前から目の前に精神の高みに登る階段はあったのだけれど気づかなかったわけです。お金を持っているとその階段に気づくことができる。登ると「あっ、そういうことか」とわかるわけです。

最近はあえて、自分の立場を隠して相手の反応を観察しているのです。「ああ、なるほど。この人たちはこういう反応をするんだ」と。

人間はお金を見ると豹変します。豹変する瞬間が面白いのです。皆ゲンキンなものです。良いか悪いかは抜きとしてそれが事実です。金を持っている人間が一番強いのなら、金持ちになればいいということなのです。

人間を動かすのはお金です。

(光文社 知恵の森文庫、『稼ぐが勝ち ゼロから100億、ボクのやり方』、70頁)

堀江の「過激な発言」(本の帯にそう書いてある)を引いて、自分の議論を有利に導きたいのだと思われたくはない。(それとも、反対に「そうなんだよね」とか「ああ、なるほど」とか思うのだろうか?)だからこそ、細かく見ていこう。

まず、女はお金についてくると言われても俄かに「そうなんだよね」と思えない。もちろん金で女をつったことがないので「本当に理解して」いないのだろうが、それでも自分のようにお金がない男でも多少なりともついてくる女がいたことは確かだし(それとも、それは女でもネエちゃんでもないということになるのだろうか)、誰かが金目当てに男についていったという現場も幸か不幸か見たことがない。そりゃあ、そういうことも人と場合によってはあるかもしれない。

そして「ネエちゃん」というのは、どういう人種なのだろう? いずれにせよ、この言葉にこめられているのは多かれ少なかれ軽蔑であり、「口説く」という言葉には、実質がどうであれ「落とせば勝ち」という現実主義が込められているようだ。しかし、自分が軽蔑する対象を組み伏せたとして、そこに何の価値があるのだろうか?ここに表現されているのは、いわゆる「ルサンチマン」であり、自分が憧れている「女」を金で落として復讐しているかのようである。そうだとすれば、それは結果的に「お金」の価値も貶めることになるだろう。複雑な心理過程である。

ここで精神の高みに登ると書かれていることは、(それだけでもないだろうが、後に書かれていることを読む限りでは)自分がお金を握っている状態から、相手がお金にどう反応するかを観察しているゆとりから来るものらしい。それはある権力を握っている人間が、その権力を利用して相手をコントロールすることだ。お金を見ると人間は豹変する。豹変する相手が悪いのであって、自分は関係ないというだろうか?しかし、ここで語られている真実とは、誰しもがお金を見れば変わるということであり、変わらずにいられるのはお金を握っているものだけなのだ、ということだ。

良いか悪いかは抜きとしてそれが事実であり、金を持っている人間が一番強いのなら、良い悪いは別問題として、金持ちという権力を握るべきだ、ということがここで語られている。堀江もどうやらそれが良い悪いと別問題であるとは留保しているらしいが、強い=権力を持つことが誰にでも開かれているのなら、それをつかむまでだという現実主義が語られる。

ふたつのことが言えるだろう。金を握ることがイコール権力を握ることである社会になった。そして、その可能性が誰にでも開かれているということが、彼らの語る民主主義であるらしい。

そして、それは良い悪いの問題とは別問題だ。まったくの別問題だと主張するつもりはさらさらない。しかし、金を握ることが権力であり、金が人を変えてしまうのであれば、良い悪いの問題としては、金=権力が偏らない社会を作らなくてはならないだろう。社会の格差が広がっているという。であるとするならば、金を持つことと人間性とは別問題であると言えることだけが、その程度に応じて、それほどは社会が悪くはなっていないと言える条件となるはずだ。にもかかわらず、金=人間性であると堀江が主張するのであれば、彼がここで語っているのは、他者をコントロールする権力を握るか、握らないかの二者択一を迫っているのが現代であり、であるなら権力を握る側に回るしかない、という勝ち組の論理でしかない。

小泉さんよ、君が作ろうとしているのはそんな社会なのか。

2005年11月14日号掲載 | 

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