キ ム チ p r o f i l e
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ホリエモンの評判を貶めようというのがこの論考の目的ではない。

先の選挙で堀江貴文が小泉首相と共闘して立候補し、広島6区で旧世代と目される亀井静香を追撃したことは周知の通りであるが(注1)、堀江は『稼ぐが勝ち』の中でも、旧世代との間の乗り越えるべき壁について、ことあるごとに強調している。

二〇代は一方的に搾取されるだけなのです。優秀な若者は旧来の社会システムに乗るだけそんなのです。

(光文社 知恵の森文庫、『稼ぐが勝ち ゼロから100億、ボクのやり方』、28頁)

この時代の転換期に、旧来の社会システムの破綻に気づかず、ほんやりしていれば他人から搾取されるだけなのです。

(同29頁)

その際、旧世代の代表の一人として上げられているのが、巨人軍オーナーの渡邉恒雄だ。ライブドアによる大阪近鉄バッファローズの球団買収に名乗りを上げた際の拒絶の経緯に関して、堀江はこう書いている。

巨人の渡邉恒雄オーナーとなると「オーナー会議で承認しなきゃ入れないんだから。知らない人が入るわけにはいかないだろう。僕も知らないような人が」と、まったくの門前払いというか、聞く耳を一切持たないという印象でした。

(同202頁)

なぜ拒絶するのか。
いろいろ考えたのですが、オーナーのお年寄りたちの「若い奴は雑巾がけからはじめろ」みたいな単純なイジワルなのではないかと思うのです。
自分たちはこれまで苦労してきて、やっと球団を持つことができたのだから、同じだけの苦労を味わえ」と。
時代遅れの感覚というか、嫌がらせの類ですね、これは。

(同203頁)

何度も言ってきたように、旧世代の限界ですね。
彼らは利権を守るだけの存在になってしまっている。徳川幕府末期みたいなものです。誰から内部から大政奉還の声を上げなければならないのは、みんなわかっている。でも誰も声をあげないし、決断ができない。

(同204頁)

小泉純一郎、これまでに登場してきた中谷巌、竹中平蔵(注2)、そして堀江貴文らが、同じ構図の中で議論をし、選挙を戦ったことは見やすい。その構図の中で、例えば中谷巌は、以前にも見たとおり、次のように書いている。

マーケットメカニズとは経済活動という面における民主主義そのものだということです。(…)もし、官僚がさまざまな規制をすることによってマーケットによる資源配分に介入することが必要以上に多くなれば、それだけ経済民主主義は損なわれ、国民の生活水準は下がることになります。
思いきって言えば、日本社会にはこの意味で、かなりの程度、民主主義が欠如していると私には思えるのです。

(『痛快!経済学2』、中谷巌、集英社インターナショナル、17頁)

旧世代、旧来の社会システムとは、中谷が「さまざまな規制をすることによってマーケットによる資源配分に介入することが必要以上に多い」社会のことだ。それは効率を損なって、国民の生活水準を下げ、民主主義を欠如させると中谷は説く。中谷巌においては、旧世代を叩いて経済民主主義を貫徹することは、国民の生活水準を向上させ、「公正」を守る正しい道として語られている。この中谷の「公正」と企業家の欲望との間に存在する矛盾についてはすでに指摘したとおりであるが、この旧世代を叩くことと「公正」や正義との関係を、堀江の議論の中で糺すことが次に行ってみたいことである。

注1 立候補に際し、堀江氏は記者会見で、対立候補となる国民新党の亀井静香元自民党政調会長に関して「考え方は180度異なる」とした上で「広島6区には郵政民営化に賛成する候補者がいない。本当は他の人がやってくれる方がいいが、誰もやらないから私がやる決意だ」と述べ、郵政民営化を争点に挑戦する考えを明言したという。

注2 中谷巌と竹中平蔵の関係について。ネオリベラリズムの論者には、フリードマン、スティグラー、ハイエク、ベッカー、ブキャナンらの経済学者がいるが、中でも公共選択理論を提唱するブキャナンの『自由の限界』を監訳した加藤寛(慶応義塾大学名誉教授・千葉商科大学学長)は、1980年代に中曽根内閣の中心的ブレーンとなって第二臨時行政調査会等で鉄道や通信事業の民営化をとりまとめしている。当時のいわゆる「行政改革」は、日本におけるネオリベラリズムへの舵きりを告げるものであり、また同時期のサッチャー・レーガン政権でも公共選択理論は大きな役割を果たしていたという。1990年代を通じて加藤は政府税制調査会長を務め、「小さな政府」を目指す基調を作り上げる。郵政の民営化も加藤の年来の持論であった。これらの1990年代の種々の政策提言の策定において、中心的な役割を果たしていたといわれるのが中谷巌(前一橋大学教授・多摩大学学長)である。加藤は、1990年に中心となって現在の慶應義塾大学総合政策学部を創設し、助教授として竹中平蔵を招く。竹中は中谷の誘いで小渕内閣の経済戦略会議に加わり、2001年からは小泉内閣の経済財政担当相に抜擢され、今に至るという経緯である。

2005年11月21日号掲載 | 

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