ぼくは、誰からのものともしれない指令(コマンド)に従って、Kが書こうとしていたという『アラン・ロブ=グリエ――フランス語のレッスン』というタイトルのテキストを探している。ぼくに直接連絡をよこした「へんしう長」とも呼ばれる人物は、その指令はAからのものだという。しかしそのAはいまのところ知らぬ存ぜぬを決め込んだままだ。

指令は、どこからやってきたのか? 黒沢清の『School days』で階段の上から双眼鏡を覗き込んでいた蓮實重彦のように、組織の黒幕がどこかに存在しているのか? 学園の中には、ブカブカ行進曲が流れて、看板を掲げた学生たちの行進が過ぎ去り、紙屑だけが風に舞っている学園内の街路は、ブカブカ名残の行進曲にかえってうら寂しい。トニは、超越的に上部から、外部から指令を発するような主権は、もう現実性を失いつつあるという。存在するのは、コミュニケーションの <共> によって生み出されるマルチチュードの 「主体性」(!)だけだ。一者の超越的な主権は、今日危機を迎えつつある。だからこそ <帝国> はその既得の主権を守るために「戦争」によって、 <帝国> の全土を覆う警察的な、内戦的な「戦争」によってマルチチュードを拘束する生権力(バイオパワー)を発揮する。

そのトニに対し、日本国当局は、入管法をたてに入国を事実上拒否した。7月の洞爺湖サミットを控えて入国審査が厳しくなっているという。当局による指令によって、われわれのパーティは延期を余儀なくされた。

小川紳介の『圧殺の森』や『現認報告羽田闘争の記録』を見ていると、当局の指令によって学生たちに加えられる暴力が痛々しい。そして黒沢清とパロディアス・ユニティによる8ミリ映画群が、小川紳介のこれらの映画の影響の元に、図らずも学園闘争のパロディとして導演されたのに違いないと思われてくる。ちょうどジェームス・ボンド・シリーズをはじめとするすべてのスパイ映画が、東西対立体制を物語の淵源とし、アランのすべてのフィルムとノベルが、その組織対立をクリシェの源としたように。

指令(コマンド)はどこからやってくるのか? ぼくは(そして、われわれは)組織の存在を信じ、そして懐疑している。懐疑しながら、信ずるふりを行うことによって、組織の存在を延命させてしまう。ぼくは組織の存在を暴こうとしているのか? それともぼくは組織にあやつられているだけなのか? 組織とは何か? それは小説という「制度」か?  言語という「制度」か? 何故にアランは、フランス語のレッスンを行おうとしたのか?

2008年3月24日号掲載

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