アランの『ジン』Djinnは、シモン・ルクールの物語として提出される。
『ジン』は、はじめアメリカの学生向けのフランス語のテクストとして書かれ、全体で八章からなるその物語に、そのテクストが発見された経緯を示すプロローグと、シモンの失踪を巡る後日譚を示したエピローグが書き加えられている。プロローグはこう書き始められる。
「シモン・ルクールの物語を純粋な小説的フィクションの範疇に分類することを、誰にしろ、可能ならしめるようなものは何ひとつ――つまり、どんな決定的な証拠も――存在しない。むしろ逆に、この不安的で欠落の多い、というかひびのはいったテクストのあまたの重要な要素は、注目すべき執拗さで、したがって悩ましいくらいに、現実(万人の知っているこの現実)に符合していると断定することができる。そして、物語の他の構成要素が現実から故意に離れることがあっても、いつでもその手口はいかがわしいから、そこに話者の組織的な意図を見ないわけにはいかず、まるでなにか秘密の原因が、彼のそうした手直しや捏造を要求したかのようなのだ。」
つまりこのテクストは、フィクションと考えるには現実に符合する部分が多すぎる。そして、現実から故意に離れるかのような部分には、組織の働きかけが垣間見えると。つまり、このテクストは真実を告げているのであり、それを疑わせるものがあるとすれば、それは組織による改竄なのだと。
そして、プロローグはこう書き加える。
「ここに提示するテクスト――ダブル・スペースでタイプした九十九枚――は、彼の仕事机の目立つ場所(アムステルダム街二十一番地に彼が借りていた家具付きの質素な部屋)、古ぼけたタイプライターの横に置かれていたが、専門家の鑑定によれば、たしかにそれが、タイプするために使用された機会だという。とはいえ、その作業は何種間も前、それどころかきっと何ヶ月も前に遡る模様である。だから、ここでもまた、タイプライターと原稿用紙が並べて置かれているというのも、ひとつの演出の結果、つまり自らの痕跡を昏ますために、この捉えどころのない人物が考えだした偽装である可能性がある。」
こうして、プロローグは、ここから読まれる八章からなる物語のテクストが、シモン・クレールと同定されるべき捉えどころのない人物の仕事机の上から発見されたことを告げる。
こうした「発見されたテクスト」という結構が、物語の真実らしさを担保するためにとられた「小説」という比較的新しい文芸ジャンルの伝統的な手法であること、あるいはこうした構成自体がある種のクリシェであることは指摘しておいても良い。
プロローグは、すぐさま、このテクストがフランス語の教授用の教科書の体裁をもつことを明かす。
「彼(シモン=引用者注)の物語を読むと、まず最初、ごまんとこの世に存在する、フランス語教授用の教科書を読むような印象を受ける。われわれの国語の文法的難易度に応じた規則的な進行を、次第に長さの増す八章を通じて苦もなく見てとることが出来、その分量は大まかに言って、アメリカの大学の三ヶ月学期の八週分に相当するようである。動詞は四種類の活用の古典的順序にしたがって導入され、さらに第二活用については、起動接中辞を含む動詞と含まない動詞との間の対比をはっきり強調している。時勢と叙述も完璧に仕分けされ、直接法現在から接続法半過去、前未来、条件法へと、厳密な順序にしたがって継起している。関係代名詞の用法にしても同じであって、その複合形はかなり後でしか現れない。慣例通り、相互的名動詞、本来的代名動詞は、大体において、最後のほうに宛てられている。」(『ジン―ずれた舗石のあいだの赤い穴』、アラン・ロブ=グリエ、平岡篤頼訳、集英社ギャラリー「世界の文学」9、1990年)
しかし、この物語に語られているストーリーは、そうした教科書の類いに見受けられる人畜無害の内容からも、伝統的なリアリズムからもかけ離れているから、教科書という体裁は何らかの秘密を隠蔽するためのアリバイなのだろうとプロローグは結論づける。
さて、以上のことから、八章からなるシモンの物語がどういった体裁のものであるかが、理解できたであろう。ここに読まれる、Kの失われたテクスト巡る冒険は、明らかにシモンの物語の体裁をなぞっている。Kの物語が、アランがそうしたように正確に教科書様に書かれているとは言いがたいが、話者ははじめ一人称の現在形から語り始め、第二章では、二人称で語りかけられる。これはもちろん同じヌーヴォー・ロマンの旗手であるミシェル・ビュトールの手法への目配せであるだろう。そして第三章では、伝統的な物語の形式が試みられ、しかしながら、地の文とそこに引用される会話の文とが、反転されている。
ヌーヴォー・ロマンはさまざまな話法の実験を試み、伝統的小説が担保してきた真実らしさを破壊して、新たな表現を創出しようとした。アランが、いささか韜晦しながら、シモンの物語が教科書風であることを明らかにしたように、こうしたことを物語の中で明らかにしなければならない。
アランの『嫉妬』は、原題をLa Jalousie という。Jalousie は、「嫉妬」であると同時に「ブラインド」の意味を持つ。『嫉妬』の中で語られているすべては、嫉妬深いAの夫のブラインドの陰からの執拗な視線による描写である。そのことをアランはどこかで明らかにし、『嫉妬』の話者の語りに、そのエクリチュールにもっと深遠なものを見ようとしていたモーリス・ブランショを失望させた。すべてを明らかにしなければならない。
「……この世界は、意味があるともいえぬし、ないともいえぬ。世界は、ただ単にそこに在る。いずれにしてもそこに在る、ということこそ、一番目立つ特色だ。……それ故、(心理的、社会的、機能的)意味づけの世界に代って、もっと堅固な、もっと直接的な世界を建造しようとしなければなるまい。そのような世界の現存によって、はじめて事物や仕草が自己主張をするからである。またこの現存は、説明的なあらゆる理論を超えて、支配しつづけることが必要である。なぜなら説明的理論は、事物や仕草を、既知の、ある体系の中に閉じこめてしまうだろうからだ。感情上の、フロイト流の、形而上学的の、あるいはそのほかの体系に。」
なるほどそうだとも言える。しかしそれ以上に、それは深層の拒否であり、表層の賞揚である。語られ、見られる世界の奥に、隠された真実があるというプラトニズムの拒否である。そのような語り口は、結局のところ、この世界の向こう側に超越的な真実の世界が存在するというニヒリズムに帰着するから、とまで語ってしまうのはKの越権行為であるとしても。
クリシェだけが存在し、クリシェの奥に真実を探すのは無駄なことだ。このアランのゲームのルールをまずは受け入れる必要がある。ここに読み継がれるKの物語が、シモンの物語をなぞっていることが明らかな以上、この物語が八章からなり、エピローグをもって閉じられるであろうことも明らかなことだ。折り返しは過ぎた。先を急がなくてはならない。
2008年3月31日号掲載
▲page
top