あ ら す じ

 寝室のある棟は東にあるから、かりに東棟と呼ぼう。さっきまでいたのは西だから、西棟だ。

 恋の足で走っても、東棟の美郷の部屋までは十五分三十秒かかった。東棟の二階が西棟二階の渡り廊下で繋がっていたが、リビングは一階だったので、一度、西棟で階段を駆け上がる必要があった。

 距離はかなり長い。学校より広そうな印象だ。到着した時にはもっと狭いと思っていたのだが。

 だが、よく金持ちの家にあるような、ひけらかしの壷や絵画はなかった。移動途中の壁には、アンティークな時計が二、三かけてあっただけだった。過剰装飾の逆というか、この家の清楚せいそというかさっぱりしたところは、愛好みだ。ただ、そのおかげで、えんえん同じような景観の廊下が続いているので、迷子になりそうになる。事実、恋は何度も迷っていた。道がわからない人間が先頭を走っているのが、間違いなのだが。

「この家の間取りを熟知している人間なら、もっと早くリビングからここに来られたかもしれないよ」

「でも、この女を殺すのは無茶だね。この女が今までの事件の犯人で、自分で死んじゃったって言う方がまだ真実らしい」

 なるほど、事件を起こしたことを苦に自殺──。利羽は子供なのに、なかなか面白い推理をする。

 だが、恋はりんと背筋を伸ばすと、不敵に笑った。

「それは違う。もう、僕の来月のお小遣い賭けてもいいね。美郷ちゃんは犯人じゃない」

「なんで? お兄さん、初めはこの女が犯人だって言ったじゃない」

「探偵の勘。……それを支えるのは、この切り傷かな」

 美郷の身体を手で示すと、訊いた。

「右利き?」

「ぼくは左利きだけど」

「君じゃなくって美郷ちゃんだよ」

「……そんなの知らないよ」

「あ、そ。じゃコレ」

 恋は乱雑に散らかった机から、びっしりとプリクラが貼られた手帳を引きずり出した。中には一ページに一枚ずつプリクラが貼られ、その時の感想や場所が日記のように、カラフルなジェルのボールペンで横書きで細かく書きとめてある。

「僕のクラスの子もそうだけど、女の子ってマメだよね……。それはいいや、僕も利羽と一緒、左利きなんだ。左利きがこういうふうに横書きで書くと、乾いてないインクを手がこすってにじんじゃう。この手帳はそうなっていないから、たぶん美郷ちゃんは右利きじゃないかな」

「たぶん」を強調すると、恋は血で汚してしまったプリクラ帳を、すまなそうに机に戻した。利羽は呆れて、続きをかす。

「それが?」

「かりに右利きだとしたら……この傷は変かな。右手に刃物を持って、自分の体を右から斜めに切るなんて、難しいもん。左から斜め下、だと思わない?」

 そっか、と愛は納得した。想像してみればわかる。

 でも、恋はふにゃと笑うと、

「ま、状況証拠だからな。あてにはならないし、する気もないけど」

 成り立ちそうだった推理をあっさり棄てた。

「どっちみち、最低でも、美郷ちゃんを切りつけた犯人はすぐに捕まるさ」

「どうして?」

「美郷ちゃんは生きているから。目が覚めたら、誰が犯人だった?って、訊けばOK」

 え。

 愛は思わずポカンと口を開けてしまった。てっきり、美郷は死んでいると、失礼な思い込みをしてしまっていたからだ。この部屋にいる全員が同じ反応をしていた。

「アレ? みんなどうしたの?」

 恋はキョロキョロして、体全体からクエスチョンマークを出しまくっている。

「うーん、いや、最悪の結果じゃなくて良かったですね……」

 勘違いしていたことを遠回しに愛が知らせると、恋は河豚ふぐのように頬を膨らませた。

「愛! 失礼なヤツだな〜! 発見が早かったから、助かったんだ。あとは救急車の到着時間にもよるけどね、危険な状態ではあるから……」

 止血しにくいところを切られているな、とぶつくさぼやきながらも、恋は手際よく準備を始めた。

「美静ちゃんは、最悪なことになってしまったけど」

 ささやき声より小さく呟くのが聞こえる。でも聞こえないふりをした。

 美静は本当に死んでしまったのだろうか。だって、倒れる寸前まであんなに元気だったのに。それに美静は、愛のそばで、これから美郷と理解しあっていきたいと言っていたじゃないか。

 人が死ぬのはいつだって突然だ。愛の一秒後だってわからない。まさしく一寸先は闇。だから、美静だけが特別に急逝きゅうせいだったわけではないのだ。

 愛は自分に言い聞かせたが、どうしても、美静の笑顔が思い出されてしょうがない。それを断ち切るようにはっきりと、

「美静さんたちのお母様は、私がお母様の部屋に運びます。その後、リビングへ……新垣さんと愛久に任せきりにはできませんから」

 と言って、素早く担ぎ上げた。

「……おう、よろしく」

 恋はこちらを向かずに敬礼した。恋が笑っている顔が脳裏に浮かんだ。それは経験に裏づけられた想像だったが、美静がいない今、慰めを求めた愛の弱さがそうさせていただけだ。

 

2006年2月27日号掲載

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