あ ら す じ

 すすり泣きしか聞こえてこないリビング──。愛久と菫はそこで救急車を待っていた。

 菫は、倒れたまま二度と動かない美静の横に崩れ落ちて、ずっと泣いてばかりだ。愛久は窓の外を頬杖をついて眺めている。二人の間に言葉はなかった。

「……ほら、水」

 重い沈黙を破ったのは、意外にも愛久の方だった。が、食卓の上に置かれた水差しを手渡すあたり、徹底的にデリカシーが欠けている。

「脱水症状起こすぞ。いい加減泣きやんだらどうだ」

「……ぢぃぢゃんのバガ」

「は?」

 全面的に濁点で呼ばれた愛久は、菫の言葉が聞き取れず、少しムッとした顔をした。

「お前にジィちゃんと呼ばれるほど老けたおぼえはない」

「こういうところがイヤなの! フツー、女の子に、毒が入っているかもしれない水渡すやついる!?」

「でも、喉は渇いているんだろ」

 菫がツンとそっぽを向くのをため息混じりに見つめ、愛久は、水差しをテーブルに戻さず、両の手だけで、誰かのコップに水を注いだ。抜群のバランス感覚だ。

「安心しろ。その女は」

「『その女』じゃない! 美静ちゃん!!」

 菫に怒鳴られ、愛久はうんざり呆れ返りながらも、黙って言い直した。

「……鬼塚は、この部屋で飲み物を一滴も口に入れていない。よって、この水に毒が入っているはずもない」

 言いきると、なみなみと満たされたコップを菫の目の前にずいと押し出した。

「早く飲め」

 しゃがんで菫を覗き込む愛久の青い目は真剣だった。真剣に菫を心配している。その優しさにドキッとした菫は、コップを奪ってまたそっぽを向いた。

「……そういうところが大嫌い! バカ」

「良いことをしてなぜ怒られる?」

 菫の気持ちを知るよしもない愛久は、釈然としない。

「知らないわよ! 自分で考えなさいよ! バカ」

「自分の言動に責任が取れないのか?」

「大体ねぇ、このくらいで脱水症状起こすわけがないでしょ。ホントにバカ」

「俺より成績の悪い新垣に、バカ連発されることになるとはな」

 愛久は肩をすくめて、窓際に戻った。

 菫はそっと水を口に入れた。だが、吸収した水分は次々と涙になって流れてしまう。

「ちぃちゃんは、何でそんなに落ち着いているのよ。美静ちゃんが死んじゃったのよ!?」

 しゃくりあげながらも、菫は愛久に抗議した。優しい愛久、乱暴な愛久、冷静な愛久──どれが本物なのか、無性に気になったからだ。

「……部屋、出るか。近くにいれば誰も文句言わないだろう」

 愛久は混乱しきりの菫を引きずり立たせて廊下に出た。一応、気を使ったつもりだ。いつまでも死体のそばで会話しているのもどうかと思う。

 暗くて、とても寒いのに、愛久は冷たい大理石の上に座り、窓にもたれると、生き物の気配がない夜の庭を見つめる姿勢のまま、

「……俺は、鬼塚と接点がなかったからな」

 と当たり前のように呟いた。

「今日ここに来たのだって、景色を変えたかったからだ」

「何それ?」

「俺は、毎日、同じ景色を見るのに飽き飽きしている。見るものすべてが網膜に焼きつくんだぞ。通学路、店、学校の内装、くだらないクラスメイトの会話だって……。一度立ち読みした本も、ページそのものが写真みたいに完璧に記憶に残る。……こうすべてのことが俺の記憶どおりに毎日あるのを見ると、本当に飽きる。だからたまには、この群馬みたいな行ったことのない場所に来て、記憶にない景色を見たい」

 日常生活がくだらなく思えてしかたない。今回の事件みたいなことが起きれば、被害者には悪いが、退屈しない。

「ちぃちゃんは昔からそうよね」

 菫はイライラして愛久の言葉にかぶせた。

「毎日変わらないものなんかないのよ。ちぃちゃんみたいにタイソーな記憶力を持っていらっしゃる方にはわからないかもしれないけど! いつもちぃちゃんは昔と今を比べてばっかり」

「……昔と比べず、何と比べるって言うんだ?」

 愛久は渋々こちらを向く。少しは菫に聞く耳を持ったらしい。ここぞとばかり、菫は早口で言った。

「昨日に取り残されているのは、ちぃちゃんの後ろ向きの考え方だけよ。私は頭が悪いから、昨日のことなんか覚えていないけど……。私だったら──ダイエットした未来の自分と比べて、もっとスタイル良くなるように努力するわ! 今日より明日、もっとダーリンに愛されたいもの」

 愛久は何か言い返そうと僅かに唇を動かしたが、言葉は何も出てこなかった。

 リビングは再び静まり返る。息苦しくなるような長い間をおいて、愛久が重い腰を上げた。

「……新垣、さっきから俺に怒ってばかりだな。言いたいことがあるならさっさと言え」

 で、どうしてそうなるのだ。ここまで意見を否定されながらも、愛久はさっきと同じように冷静だった。しかし、こうなれば勢いだ。いっそ全部、尋ねてしまおう。

「わかっているの。ちぃちゃんだって、ちょっとずつ変わっていけるってこと」

「?」

 愛久は、菫が何を言おうとしているのか図ろうと必死な様子だ。

「……ちぃちゃん、本当はダーリンを手伝う気満々で来たんでしょ?」

「違うって言っただろ」

 一瞬、声を荒げた。愛久が冷静さを失うのは、図星の時だけだ。

「ちぃちゃんは昔からそう、カッコつけたがり。だから本当のことなんて、絶対、私の前なんかじゃ言わないわよね。しかも利羽君にも何か言われた後だもの」

「あのガキは関係ない」

「ダーリンにくらい、素直になった方がいいんじゃない? ちぃちゃんだって、自分の能力が日常生活だけじゃあり余っているって思っているんでしょ。
ダーリンのことを手伝えば、存分に活かせるかもしれないじゃない」

「俺は恋の道具じゃない!」

 愛久は窓ガラスを叩いたが、それでも菫は質問をやめなかった。利羽を殴った真相を愛久本人から聞けば、手っ取り早いし、恋に絶対喜んでもらえる、と確信していたからだ。これは絶好のチャンスである。それに、たとえ──失礼だが─―愛久と肉弾戦になっても、負ける気がしなかった。

「悪ぶっていると、みんなが傷つくだけ。ちぃちゃん、優しいんだから、本性出しなさいよ。利羽君を殴った理由を言わないのだって、あの子にも非があるからなんでしょ。ちぃちゃんは相手が悪ければ悪いほど庇いたがるのよ──中学校の時の暴力事件をもとに推理してみたわ!」

 美少女探偵をイメージしたのか、フリルのスカートをひらひらさせて一回転すると、うつむいた愛久の肩に手を置き、恋を思い出して、微笑んだ。

「ホント、ダーリンにそっくり……。バカみたい」

「恋?」

 愛久は驚き、弾かれるように顔を上げた。菫は嫌味を言うつもりで、

「ダーリンも、ひどいことを言ったちぃちゃんをかばいまくっていたわ。ちぃちゃんにそっくりよ。さすが兄弟」

 と舌を出した。が、

「──兄弟、か……」

 ややあって、愛久は本気で笑い出した。

「血の繋がりがないの、知っているんだろう?」

「何? そんなの兄弟仲には関係しないのよ!」

「……怒るなよ。面白いことを言ってくれたな、と思っただけだ」

 菫は最初、褒められていることに気づかず、また怒るところだった。しばらくの間、愛久が珍しく楽しそうに笑っているので、もう追及する気力も萎えはじめていた。が、笑い疲れた愛久は、自分から話しはじめた。

「利羽……あいつは、自分から俺の隣に寄ってきて……俺が、恋と愛の実の弟ではないことを指摘してきた。嘘をつく必要もないから、真実を答えた。すると、利羽は、俺のことを恋の道具だと言った。実の兄弟じゃないのだから、役に立たなければ可愛いはずがない、と。自分がそうだからと──」

「で、ガツンと……?」

「……最近、俺もそう思うことがあったからな」

 要するに図星だったわけだ。精密コンピュータの壊れる要因。ちょっとは自分を守るセキュリティを強化させたらどうだ。

「なぜ、殴るまでしてしまったのかはわからない。頭が真っ白になって、気づいたら利羽が泣いていて」

 額を覆って、愛久は深く息を吐いた。

「……新垣」

「何よ?」

「平和で変わらぬ日常の大切さを知り、それを守るために成長する──愛の座右の銘みたいな口癖だ。今日、お前の口からも同じことが聞いて、本当にそれが重要なことなんだとわかった。だから……つっ!?」

 右胸に鈍い痛みが走る。遅ればせながら、菫のパンチが入ったことに気づいた。

「うぬぼれないで。褒めたりとか慰めたりとかするつもりじゃなかったんだから。ぜーんぶ、ダーリンのためよ! カッコつけてお礼とかしないでよ?」

「お前もたまには良いこと言うな、って言おうと思っただけだろ? 礼をする気などさらさらない」

「ダーリンのためとはいえ、ご注進してやったのよ? お礼くらいしたらどうなの!?」

「……矛盾しているぞ?」

 もう一発。今度は向こうずねにキックが決まった。

「新垣──昔からとんでもない怪力なのは有名だったが……」

 恋は知らないのだろうか。羽交はがめにされるのも、ただの愛情表現だと思っているのか。

「ダーリンに謝らなかったら、どうなるかわかっているんでしょうねぇ?」

 座り込んだ愛久の前に仁王立ちして、菫は邪悪に笑った。愛らしい悪魔の笑みだ。悪寒が走る。

「わかった。わかったから脅しはやめろ」

「そう? 良い子ね、ちぃちゃんは」

 なるほどこの可愛さに男は引っかかるのか、と納得したくなるような、みごとな喜色満面の菫を、せめてもの抵抗として睨んだ。

「何匹の猫をかぶれば、恋といる時の新垣になる?」

「逆よ」

 胸をそらしやがる。

「ちぃちゃんの前でだけ人格が違うの。嫌いだから」

「……俺は、何かお前に嫌われるようなことしたか?」

「お得意の回想、してみたら?」

 言われなくたってする。思い出すのは得意だ。

 ほら、菫との初対面から今日までに交わした全会話──。一字一句漏らさずに蘇る。すれ違った時間まで覚えている時すらあるのだ。

 でも、

「嫌われるようなおぼえはないな……」

「!……信じられない!」

 実は、愛久はちゃんと思い出していたのだ。

 クラスメイトになったばかりの頃、喫茶店に二人で行く約束をしておきながら、すっぽかしたことがあったのを。

 さて、菫に倒される前に、愛久はあれこそが罪だったと気づくことができるだろうか。

 

2006年3月6日号掲載

▲このページの先頭へ