*M・コズモ03号
(1988年1月31日)より転載

はじめから読む

text/安宅久彦who?

 蚊帳の四方に一人ずつ人が立っている。男が二人、女が二人、四人とも知らぬ人であるが、どこかでその顔を見たことがあるような気もする。彼らは手に一つずつ、カスタネットを打つように濡れた貝を捧げ持っている。

 そいつらから目をそらすと、俺は久実の身体を布団にくるんで固く抱きしめた。そしてもう一度彼女のこめかみに口づけると、闇の中を水音が高鳴り、二人して暗黒の滝の中に落ち込んでいった。

 

 前に書いたところで、娘が神隠しに遭うのはあたかも男嫌いが原因であるかのようにふざけて書いてしまったが、無論これは違う。神隠しが起きる根本的な原因は、子供たちをその生地のテリトリーに結びつけているものが、帰巣本能のような自然ではなく、その家や土地の規範にすぎないという点にある。

 言うまでもなくテリトリーを画する規範が、同時に異界を形成する。しかし、その規範の裏返しとして、異界に誘われる心性といったものをするのも間違いである。規範に現実的な根拠があるように、神隠しにも何か現実的な理由があると見なければならない。

 断定的に言うと、神隠しに遭いやすい子供というのは、おおむね大人しく如才なく、大人の顔色を読むことに長けた(その意味では感受性の強い)、環境的に満ち足りた子供たちである。大人はそういう大人しい子供たちを指して、この子は引っ込み思案で、何を考えているのかわからない、と言う。その通り、そうした子供たちにとっては、何を考えてよいのかわからない、あるいは大人たちの言葉で考えることなど何一つないのである。

 大人たちは、すでにでき上がった秩序を手にしながらも、自らの生息地を少しずつ拡げていかねばならないため、日々が異界に接し、新しい事態に直面し続けている。彼らは規範にしたがってそれらの事態に対処しつつ、少しずつ規範を変形することによって、外のものを内に取り込む作業を行っている。そこでは規範は生きて動くものであり、その限りで考えることが発生している。もちろん、規範が崩れてしまっては考えることはできない。しかし、また一方で、規範が規範として同じものに止まっていたのでは、やはり考えることはできないのである。


      2005年
51日号掲載