*M・コズモ03号
(1988年1月31日)より転載

はじめから読む

text/安宅久彦who?

 子供たちは言いつけを守り、規範にしたがって行動しながらも、規範に実感を持てないでいる。彼らに当面実感できるのは規範を破れば叱られるということであり、それを守っていれば叱られずにすむということにすぎない。言いかえれば、規範がその場かぎりの文言にすぎないことを知っているのが彼らである。

 そういう子供たちがひとたび異界からの貫入に出遭ったとき、彼らはその誘いに抵抗するすべを持たない。子供たちはいつも、「こうして自分が連れ去られるにはそれなりのわけがあるのだろう」と観念して、神隠しの力に身を委ねる。此界と異界を隔てる恐怖の一線を越えた向うに、何があるのかは無論わからない。ただ現に自分の手を引いて、境界を越えていく抗いがたい力があるだけだ。そして、結局のところ、異界には異界の規範があり、連れ去られた子供たちはその規範にしたがって生きているか、もしくは規範にしたがって葬られているか、どちらかなのである。だから、何も案ずることなどありはしない。残された人々が案ずるべきなのは、神隠しによって生じた共同体の空隙、壁の破れ目からのぞく恐怖の空間をいかにして処理するかという一点である。

 いっぽうで、こうした子供たちとは違い、早くから自分の身を処する方法を身に着けた腕白小僧たちは、神隠しに遭うことがない。彼らもまた神話のなかで自らの好奇心のおもむくまま故郷を去るが、共同体の一部としての自らを失うことなく異界を経めぐり、やがて故郷に帰ってくる。彼らの帰還によって共同体が受けとるものについては、ここにくだくだしく述べるまでもない、共同体の規範の活性化、アイデンティティの再強化、テリトリーの再領有化……。いずれにせよ、英雄譚は共同体の結束によって不可欠の神話である。

 娘の変成譚を途中で中断したままだが、ここで書いてしまおう。俺は十年前に黒い背中をした男に手を引かれるまま、神隠し同然に故郷を出て東京にやってきた。片頬に浮かんだ頼りない笑い、心ここに有らずのおぼつかなげな足どり、時々振り返る男の定かならぬ表情をうかがいながらのお追従笑い、そしていっさいが崩れていく砂のような日常。これらを味わった人間として、俺はすべてを平らげて自己の場に帰還する腕白小僧の側に立つのではなく、他なるもののうちに自らを失って変えることのない「頼りない」子供たちの側に立ちたいと思う。そこからすれば、たとえば周縁の文化を取り入れることによって中心を活性化するとか、内に向かって閉じられた世界を「外部」に向かって開くといった理論は、みな前者の側に立つものとして拒否されることになる。しかし、後者の側に立つ論理が保守性や奴隷根性の肯定、怠惰や頽廃――総じて弱々しい魂が産み出すもの――の賛美といったものに終わらないためには、新しい弁証法、新しい神話が必要とされるに違いない。

      2005年58日号掲載