*M・コズモ03号
(1988年6月30日)より転載

はじめから読む

text/安宅久彦who?

 小学生の宿の下の娘が、ブラウスの白い襟元に西瓜の種をこぼしながらしきりにこちらへ話し掛けようとする。俺は娘の形のよい顎をタオルでふいてやりながら、背後からの視線をずっと気にかけつづけている。屋根の上から民宿の狭い庭を見下ろすと、そこはヒルまで、久実が宿の上の娘と影踏みをやっている。ああ、あれは影踏みという遊びだったなと思うのだが、二人の動作は短い木の杖を手にして日に乾いた地面を交互に指さしあっているだけだ。

「映画の筋をおしえて」と小学生の娘が耳元で柔らかくささやく。「あれは鞍馬天狗?」それから、貝殻の内側のように白い腋の下を見せて手を上にあげ、「こうするの?」と踊りの手振りをしてみせる。俺は頷いてみせ、手に持った箱をあけて映画の筋書きを書いた紙を取り出す。

 歯医者の椅子に座っているように、娘は顔を上むけて唇を大きく開く。その口のなかで赤い火がともり、端のほうから紙切れを焦がしていく。

 場面が換わり、俺は久実と二人の娘と一緒に青く澄んだ海のなかへ入っていくところだった。「この子は病気だよ」と下の娘を指さすと、娘は恥ずかしそうに、骨が見えるくらい土気色の痩せた裸の身体を腕で隠そうとした。

 インクのように青い波が肩を洗う。仰向けに水に浮かんで、静まった空と海面とが視界をおおっているが、背後から見つめられているというやましい気配は途切れることがない。救急車の赤い非常灯が水のなかで急速に回っているような気がした。

 まわりで水を落とす大きな音が聞こえる。「底がヌケたわ」という久実の声がする。

 気がつくと寝間着を着た久実が俺を揺り起こそうとしていた。「トイレに行こうとしたら、外にへんな人が立ってるの」と、少し焦点のさだまらない目でつぶやいている。蚊帳をとおした電灯の光のせいか、やや青ざめて見える。

 映画会はもうとうに終わっており、外は静まっていたが、その底になにかッ急をつげるような空気が漂っていた。俺は起き上がると、トイレのある廊下に出てみた。

 廊下の窓から海の方向を見ると、暗闇のなかでもその人影はすぐに見分けられた。海岸道路の向こうで、海はさきほどの灯火と喧騒がうそのように静かに凪いでいる様子だったが、その小暗い静けさのなかに肩の線もいかつい男の上半身がこちらを向いて立っていた。目に見える部分だけでも身の丈百メートルを越す大男である。表情までは知ることはできないが、何か鬱屈したとまどいをこめて、窓のなかの俺のほうを見つめているように思われる。会うと予想しなかった人にいきなりじかに向き合ったようで、足下に震えがきた。

2005年627日号掲載