
下の家並から人たちが起きだすざわめきが聞こえ、やがて身支度をととのえた大人たちが小走りに海のほうへ駆け出て行く様子だった。
この民宿でも、家族たちが目をさましたらしく下の階に明かりが灯り、やがて婆さんが懐中電灯を持って上がってきた。
「御坊さんがおいでたんじゃろ」寝間着姿の老婆は言い、電灯の明かりを海のほうへ向けた。「あんまり賑やかにやるもんじゃさかい、御坊さんがうらやんで、様子を見にきたのに違いない」と言う。「あれは何です? 御坊さんって誰ですか?」と訊ねたが、婆さんは口のなかでもぐもぐつぶやいたきり答えない。
宿の主人も階段を上がってきた。窓の外をながめて、「この前おいでたのは、いつじゃったかな?」と老婆にきいている。大きな台風のあとだったから……というようなことを婆さんは答えている。
部屋にもどって障子を閉め、蚊帳のなかで久実を抱き締めた。久実は布団のなかでむれて熱くなった頭を胸に押しつけてきた。「御坊さんが来たんじゃ」と俺は老婆の口振りをまねて答えた。「映画を見に来たんだけど、遅かったんだよ」と言うと、久実も何を納得したのかうんとうなずき、俺にまといついたまましばらくすると寝息をたてはじめた。
明け方近くにもう一度目をさまし、トイレに立った。窓からのぞくと、大は男朝の波がたちはじめた海を彼処のほうへ帰っていくらしく、後ろ姿の肩から上が海岸道路の向こうにやや遠のいて見えた。眼下の家並のどこかで、犬がさかんに啼いているのが聞こえた。
2005年7月3日号掲載
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