*M・コズモ03号
(1988年6月30日)より転載

はじめから読む

text/安宅久彦who?

「久実」とよびかけ、不安を忘れようと彼女の頬や鼻の親しみ深い曲線を探るように撫でてみる。

「鼻を撫でないで。もうすぐ、着くわ」と彼女が言った。

 どこへ着くというのか、久実。

 そうか、わかった。泥におおわれた大地の表面が泡だって、ふつふつとたぎるような開口部が開いていく様子が頭に描かれ、泡といっしょに二人がそこに浮かびあがる様子が想像された。そこは真昼の世界で、けれども孔のそばには俺たちの頭を鎌で刈ってやろうと、二人が浮かび上がってくるのを待ち受けている奴がいるのだ。光を背にしたそいつの姿を思い出し、浮上する身体の速度を止めようとするが停まらない。せめて久実を救けようと深く彼女の頭に抱えこんだ。

 やがて風の音が聞こえ、ずぼりと表面に出た。光が目に飛びこむさまを予想していたが、思いのほかそこはまだ冷たい夜が支配していた。

 しかし、そいつはいる。

 自分の頭の後ろに、首を狙って要るそいつの息づかいまで聞こえる。けれども、重い泥に包まれて首をめぐらすことができない。

 やがて闇のなかにひらめくものがあり、首から上がひといきに冷たくなった。

 夢からさめたあと、蚊帳のないかで彼女の手を握って言った。「首を切られてしまった以上、久実の顔が二度と見れないものと覚悟した」。「あほかいな」と久実は大阪弁で言い、朝風に汗の引いていく俺の額を撫でた。

 それは手紙を書きはじめた翌朝のこと。

 屋根の上で、宿の下の娘がピアニカの練習をしている。チャゲ&飛鳥の「揚子江」を何度も間違えながら吹いている。俺は庭に出て鶏をかまいながら、真剣そうな少女の様子を眺めていた。映画会の夜に、映画の筋を教えてくれというつもりなのか、水滴に濡れた髪をくっつけるようにしてこちらに身を寄せてきた娘の感触を思い出す。不意に親しげに肌の匂いをかがせ、ある夜をさかいにどんどん遠ざかっていった女の記憶に似たものを少女の姿におぼえ、この焦げるような日の光の下で妙なことを思いつくものだと苦笑した。

 上の娘は姿を見せず、庭にはいま誰もいない。コンクリートで固められた地面には、建物の影と、スカートをからげて座った少女の影だけが落ちている。

 地面に手をのばし、その影のふくら脛の部分を指先で撫でていると、いつのまにか後ろに立っていた久実がからかうように腰をつつき、「何してんねん」と言った。

2005年724日号掲載