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 別に、喧嘩をしたわけでもなく、否、静かなる冷戦と言えなくもないのだが、その頃、ふたりの勤務時間が大幅に違っていたこともあり、それに託けて別室で休むことにしてしまった。
 小さな事だが、明かりや、音や、何かと気兼ねをするのは、気詰まりでもあった。
 それに、まだその時点では、趣味のアダルトサイトを心おきなく見て回ることとか、好きな時にマスターベーションをすることとかという、ささやかな秘密ばかりだったが、眠りにつくまでの時間を自由に使えることは、願ったり叶ったりのことだった。
 しかし、すれ違いがなくなってからも、同室に戻ろうとはしなかった。その頃には、時間以上に、気持ちがすれ違ってしまっていたし、秘密も大きくなってしまっていた。
 
 今夜は、好きな映画を観ていても、ストーリーが全く掴めない。
 それでも暫くは画面を眺めていたが、それにも飽きてしまい、イヤホンを外すと隣室の気配を窺った。耳を欹てても何も聞こえて来ず、夫はもう眠ってしまったようだった。
 そう思った途端、僕は、夜毎の悪癖のことを考えた。
 否、僕はそのことが、いつも頭から離れない。寝ても、醒めても、四六時中、ずっとだ。持って生まれた資質に加え、テストステロン注射がかなりの威力を発揮しているようだ。途端に股間が疼き、むくむくと勃ち上がって来ていることを感じ取り、寝間着の上からそっと掴んで揉んだ。
 画面はそのままに、僕はベッドサイドに置いてあるキャビネットの、一番上の抽斗をそっと開けた。
 中から、いつものように鏡を取り出す。
 元は柄の付いた手鏡だったもので、十年以上も昔に枠が外れてしまい、丸い鏡だけになってしまっていた。何時から此処にあるのかさえ分からないほど、古いものだ。かと言って、値打ちのあるものでもなく、ところどころ銀塗装も剥げている上に、手垢で汚れて曇りが取れないので、あまり映りがいいとはいえない。それに、自分で買った訳でもないので、何の思い入れもないが、僕が唯一所有する手鏡だ。
 抽斗の奥底に入れ放しになっていて、存在すら忘れ去っていたくらいだし、洗面以外に鏡を見ることなど殆どなかったと言うのに、最近になり、心境の変化、それ以上に体の変化に伴い、ふと鏡で映してみたくなった時に、探し出してきた。
 これくらいの薄汚れた怪しげな鏡であれば、僕の畸形の根源を映し出しても平気であろうと、勝手にそう解釈をして、夜な夜な悪癖の時に、グロテスクなその自分自身を映し出すようになっていた。
 鏡には魂が宿るとやら聞くが、こんな粗末な扱われ方をして来た鏡なら、きっと碌な魂が宿っていないことだろう。もしかすると、奇っ怪な何かが取り憑いていたりするかもしれない。
 しかし、それでこそ、こんな僕には相応しいというものだ。
 
 ある時、マスターベーションのおかずにと、アダルトサイトをこっそりと閲覧していたら、女の放尿シーンを偶然見つけた。尿道は陰核の中心を通っていないことを、つまり、尿は陰核を通過して排泄されていないことを、その時初めて知った。見間違いかと繰り返しリプレイして、そうでないことに呆然としてしまった。そして、その事実は、僕に甚大な衝撃を与えた。僕は、生まれて此の方この畸形と付き合ってきて、本当の形を見ていなかったことを、今更ながら気づかされてしまったのだ。
 女を抱いたこともあるというのに、何故分からなかったのだろう。迂闊にも程があった。
 大人、というよりは分別盛りになるまで、こんなことすら知らずに来ていたことなど、恥ずかしくて誰にも言えたものではなかった。嗤い話にもならないくらいだ。
 僕は、自分自身に不都合な事実から目を背け、だだ漏れるメディアの情報からも耳を塞いでいたとういうことか。何かと、薀蓄を傾けることが嫌いではない癖に、事自分に関することは、綺麗に手付かずのままであったのだ。ジェンダー・アイデンティティの相違を気づかない振りを、それも無意識に通そうとしているうちに、そこいら辺に係わる全てを、すっかり切り捨てて来ていたのだ。憑きものかなんぞが邪魔をして、真実から目を背けるように仕組まれていたのでは、とさえ思ってしまった。
 僕は、僕として認められたいと願いながら、誰よりも僕のことを知らないのかもしれないと、その時初めて感じていた。
 愕然とした。

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2009年7月8月10日号掲載

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