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 暫くじっと様子を窺っていたが、何も聞こえて来ないので、安堵した。
 尚更慎重にベランダを忍び足で歩き、隅っこでサンダルを突っ掛けようとしたら、昼間脱ぎ散らかした所為で、履くのに手間取ってしまった。足の裏を土で汚しながら履くと、やっとの事で庭に出られた。
 何から何まで秘密裡に行おうとしているが、そうすることに一体どれほどの意味があるのだろうと思うと、少しだけ気持ちが萎えそうになった。
 気持ちと同じく、淫欲も萎えそうになったので、左手を素早く二、三度スライドさせてみた。湿り気を帯びた其処は、つっかえることもせずに難なく動きを受け入れた。調子づいて更に数度摩擦した。
 萎みかけていたものが、再び勃起した。
 
 月の輝く夜だった。
 暫く佇んだ後、檸檬の木の傍らで、昼間と同じように椅子に腰掛けた。
 昼間、あれほど怒気を露わにしたというのに、性懲りもなくまた引き寄せられるように近づいてしまっていた。月に照らされて、庭一帯は明るかった。だが、檸檬の花は、思ったほどその白い色を浮かび上がらせては居なかった。もっと、強いコントラストで発光するかのような白さを期待していたので、闇を吸い上げてくすんで見えた花々に、何故だかがっかりしていた。
 しかし、芳香は相変わらずで、辺り構わず漂っていた。
 背凭れに背中を預けると、尻に冷たい物が触れた。これを取りに来たはずが、忍び足をしている間に、忘れてしまっていたことに気づいた。
 ライターで咥え煙草に火を点けると、またカチリと大きな音がして、少しだけ身を固くした。
 
 僕は、一体何を懼れているのだろう。
 火のついた煙草を弄びながら、懼れの正体を黙想してみる。
 否、懼れの理由が分からない訳ではない。僕は夫を、懼れているのだ。
 夫は僕のしていることを、何も知らない。それは、僕が彼にだけは、何も知らせないからに他ならないからだが、しかし、夫もまた、僕のすることを、知ろうとはしない。寧ろ、以前の僕がそうであったと同じように、事実から目を背けている。ある時を境に僕はもう何も知らせまいと、口を閉ざてしまった。知らせようとしては拒まれ、どうにも気持ちが収まらなかったことや、目に見える変化にさえ、何の反応も示さない夫に、失望を禁じ得なかった。僕がこの場所に居ないかのような扱いに、打ち拉がれた。
 
 では、知れたところで、何がどうなるというのだ。
 究極の選択は、別離ということであろうか。しかし、それはもう、僕にとって最早受入難いものではない。寧ろ、甘美な響きさえ含んでいて、一種、憧憬すら感じている。それに、そうした方が、ずっと心安らかに居られるだろう。罪悪感につき纏われ、喘ぐことも無くなるだろう。
 ならば、懼れるに足りないではないか。
 そうだ、僕はこうして、息を潜めるように、自分を殺し、何も感じない振りをして、生きていくことにほとほと愛想が尽きているではないか。存在に罪の意識すら、覚えているではないか。
 この場所に居る限り、僕が僕であることすら叶わないのだ。たったひとつ、自分であり続けることさえ、否定されているのだ。一番欲して止まない人に、否定され続けて生きていかなければならないのだ。
 
 煙草の灰が長くなり、落ちそうになっていた。
 腰を捻り、後ろにある灰皿を取ろうとしたら、股間のディルドがずるりと抜け出てきた。月の光を受けて、乳白色のそれは、椅子の上で檸檬の花よりも白く輝いて見えた。
 股間を拡げて眺めていたら、その真白きものと、青白く浮かび上がる肌とに、何故かベルガマスク組曲の第3曲を思い出していた。ヴェルレーヌの詩をもイメージさせる、情感豊かな美しいメロディを。
 僕の大好きな作曲家の曲を、頭の中に思い描きながら、天を仰いで月を探した。
 上空に白く輝く姿を見つけて、背中を椅子に預け、暫し見とれた。その優しいピアノ曲のような柔らかな表情の月に、微笑みかけていた。僕の頭の中で演奏が続いていく。

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2009年8月24日号掲載

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