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8.
夏休みの真っ只中、僕はやはり虫たちを追い掛け回していた。
僕は四年生になっていた。
父に買ってもらった昆虫標本セットが
甚く気に入り、どうしても標本を作ってみたくて、昆虫採集に躍起になっていた。とは言え、捕まえられる虫は、この季節何処にでもいる昆虫ばかりだったが、それでも元々虫が好きなので、息を殺して虫捕り網を被せる瞬間は、何度やっても面白かった。以前はあまり好きではなかった蝉も追い掛け回した。硬い体が、標本には最適な気がしていた。
セットに入っている注射器やメスは、まるで医者になったかのような気分にさせてくれ、見るたびにわくわくした。メスは、実際手に取ってみると、持ち手はプラスチックか何かの合成樹脂製なので、軽くてちゃちだったが、きらりと輝く銀色の刃先に心躍らせた。
しかし、父は母に、この事でたらたらと小言を並べられ、謝らされる破目になり、僕は僕で、どうしようもなく落ち込むような言葉を投げ掛けられ、傷ついた。
「なんでパパは、女の子にこんな物を与えるんですか。まあ、メスまで入っているじゃない。危ないでしょ。怪我でもしたらどうするのよ。それでなくても、男の子みたいなことばっかりしてるのに。少しは考えてくださいよ。全く、もう。標本だなんて、死んだ虫を並べて、何が面白いんだか。残酷よ。みぃもみぃよ。なんでこんな変なものばかり欲しがるのよ。おかしいわよ、あなた。もう四年生なんだから、少しは女の子らしい遊びをしなさいよ。それに、いつも男の子ばかりと遊んでるでしょ。なんで、女の子と遊ばないの。だから、こんな物欲しがるようになるのよ。友達が悪いのよ。友達は選びなさい。もう、胸も大きくなってきてるっていうのに、何を考えているんだか、ママにはみぃのことが、さっぱり分かんないわ。」
僕にだって、ママのことはさっぱり分かんないよ。だから、お互い様。
そう言いたかったが、父が僕を気遣ったような目で見ていたので、言わずにいた。
父とその晩一緒に風呂に入り、いい標本を作るんだよと言ってもらい、少しは気が晴れたが、母に指摘された胸の膨らみが、恥ずかしかった。
この前年の春、母の勤める工場は経営が上手くいっているのか、路地裏のじめじめした場所から、同じ町内の少し離れた小高い丘の上に、広い敷地を買い新築移転した。しかし、家内工業であることには変わりがなかった。この話が決まった頃から、母だけが職場までが大分遠くなるのだが、是非引き続き働いて欲しいと、社長に請われていた。そうしたいのは山山だが歩いて通うには遠いため、少しだけ考えさせてくれと答えていた。母は次の日から、近所の人に自転車を借りて練習を始めた。山奥育ちの母は、今まで自転車に乗ったことがなかったという。猛練習の末、やっと乗れるようになり、今まで通り働くことを約束した。
工場の中で従業員達を招いて、簡単な新築披露の席が設けられ、僕も母について行った。
初めて訪れた時、真っ先に目に飛び込んだのは、道路から建物までの間に植わっていた、
斑入りマサキの苗木だった。二年前のことを想い出して、胸が騒いだ。
折り詰めをご馳走になった後、今はまだ綺麗な台所や、タカオやヒデキの部屋も見せてもらった。ヒデキは特に有頂天で、自慢げに如何に今度の家が凄いのかを、蕩々と語った。
次の日から、母は三キロほどの道程を、自転車で通勤するようになったが、僕もまた自転車には乗れなかったので、母の職場へというよりは、タカオの家へ行くこともなくなっていた。
だが、僕は、去年の夏に塀の中の空き地で二人でした密か事を、何度も反芻するように思い出しては、自慰に耽った。気持ちいいんだぜ、と言いながら見せたタカオの下卑た嗤い顔と、勃起したちんちんを繰り返し脳裏に浮かべては、絶頂を迎えた。タカオの顔は、今年の顔にすり替わっていた。
しかし、僕の家もこの年の春、工場から一キロほどの場所に引っ越すことになった。タカオ達の家に比べればとても小さかったし、何より借家だったけど、それでも新築の家は木のいい香りがしたし、初めて自分の部屋を与えられて、僕もこの時、きっとあの時のヒデキと同じくらい誇らしげな顔つきをしていたことだろう。小高い山や池が近くなり、遊び場所が増えたことも、とても嬉しかった。
自転車にも乗れるようになったので、行動範囲は拡がっていた。そして、タカオの家も近くなった。
> 10.
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