暫く蝉の声に耳を傾けていたが、のろのろと上体を元に戻した。痛みを感じ膝を見ると、夕べ父の言った通り、早くも傷が化膿してきていた。
家に帰ると、おやつを食べることもせず、すぐに昆虫標本セットを取り出した。
注射針で、今日捕まえた虫たちの胸に薬品を注入した。夏休みも、半ばをとうに過ぎていた。他の宿題も殆ど手付かずの僕は、急がなくちゃと焦っていた。本当は、もっとたくさん採集したかったが、セットに入っていた薬品は今ので底を突き、計算外のことに余計に焦った。今日までに捕まえた昆虫で、何とか標本を作らなくてはならなくなってしまった。しかし僥倖は、コクワガタや、カブトムシが居間の網戸に飛んできたのを捕まえていたことだった。華々しいとまではいかないまでも、みすぼらしくもならないだろうと踏んでいた。
次の日、僕は母から平たい空き箱を貰い、脱脂綿を敷き詰め、標本箱を作った。
その中に、虫ピンで採集した昆虫を留めていった。コクワガタ、カブトムシ、アブラゼミ、クマゼミ、ヒグラシ、カナブン、オニヤンマ、ギンヤンマ、シオカラトンボ、ムギワラトンボ。結局、在り来たりの昆虫だけしか捕まえられなかったが、それでも自分では満足していた。
しかし、僕は標本の一番大事な部分を、そうとは思わず疎かにしていた。セットに入っていた作り方の薄っぺらな説明書を、今更ながらに見て軽いショックを受けた。捕獲した場所、日付、そんなものは全く憶えてはいなかった。仕方がないので、昆虫の名前だけを白い紙に書き、糊で脱脂綿の上に貼り付けると、新学期に学校へ持って行くまで埃を被らないようにと蓋をして、ベッドの下の奥の方へと押しやって作業を終えた。思っていたより早く終わり、出来映えもまずまずだと口元が緩んだ。何度も蓋を開けると羽などが取れてしまうかもしれないと、新学期まで開けないことに決めた。
それからは、「夏休みのくらし」はもちろんのこと、絵も描かなくちゃいけないし、何より嫌いな読書感想文も待っていた。絵を描くのは好きだし得意なので、手抜きせずにやるものだから結構日数も掛かり、それなら最初からやっておけばいいようなものなのだが、それはしないのでどんどん他に裂く時間が少なくなり、特に嫌いな感想文は必ず後回しになる。その合間で、学校のプールにも行かなくてはならない。忙しさもあり、もう既に出来上がっていた昆虫標本のことは、忘れてしまっていた。
ラジオ体操が終わった後、帰ってから二度寝をして、何時までも起きない僕を起こそうと、母が部屋に入って来るなり臭いと騒いだ。
この年の春、此処に越してきてからと言うもの、初めて与えられた自分の部屋に母が入ってくることを嫌い、掃除も拒んだ。自分の城は、自分で管理したかった。だからと言って、まめに掃除をする訳ではなかった。いつも叱り飛ばされた挙句、仕方なく渋々片付けた。
今日も日曜の朝だと言うのに、やいやいと五月蝿い。日曜くらい寝かせてよと文句を言いながら、それでもベッドからは起き上がらなかった。暫くの間、部屋が汚いから嫌な臭いがするわよと、母は喚いていたが、そのうち諦めて戸を閉めて行ってしまった。バカヤロウと頭の中でだけ毒づいたが、実際僕も匂いを感じていた。ここ数日、何処から匂うのかはよく分からないが、何となく変な匂いがしている。母の言うとおり部屋も最悪に汚いので、その所為だろうと考えた。
8月31日は毎年、母に叱られながら泣く泣く、年に依っては実際に泣きながら、未だ終わらない宿題を必死になり片付ける日だ。今年も例に漏れず、涙こそ流してはいないが遅くまで終わらなかった。
結局、読書感想文は、持って行くのを忘れたことにして、提出を一日伸ばしにしようと泥縄式なことを考えていた。小学四年生の僕は、眠気に勝てなかった。
2009年1月4日号掲載