「これね、火星なの。」
カイエが心の奥底からコフィに気を赦したのは、この瞬間からだった。
「火星?」
「覗くとね、湖や運河や渓谷があって、僕は名所巡りを楽しむことができるんだ。あんたにも、貸してあげる。」
コフィはビー玉を光りにかざした。
「大きな海が見えるぜ。」
「そこは、腐海。そこから南下したところにある山脈は、コーカサス山脈。それを越えると、涙の湖があって、右側にエバーランドという町があるんだ。」
コフィは熱心にビー玉を覗いていた。
「エバーランドはゴーストタウンさ。たまに、痩せた犬が見える。その西に、星運河がある。その町は栄えているんだ。」
「いいビー玉だな。」
安物の、たったひと粒のビー玉にコフィも夢中になって呉れることが、カイエにはうれしかった。
「おまえは、ポケットにいつでも惑星を持っている。そのうえ、ブランカとブラウンもいる。おまえは、自分がおもっている以上にツイてるぞ。」
「エヘ。そうかな。」
「そうさ。」
「コフィはさみしいの?」
「オレには指輪があるし、ツェザーレ氏もいるからな。ペットも飼いはじめたし、さみしくはないな。」
コフィは新しい煙草に火を点けた。コフィの眼の下にクマができている。
「僕のこと、探してくれたんだね。」
「そりゃ、オレの持ち物だからな。」
カイエはうれしくなって、きゅうっとコフィに抱きついた。
「おい、よせよ。」
「ヤダ、」
「もう、誰にもおまえを触らせないから。」
「ほんと?」
「ほんとうだ。」
しかし、カイエはコフィにしがみついたままだった。見慣れた町に戻って、ハイヤーから降りると、クリスマス・イルミネーションはすべて取り払われていた。
「クリスマス、終わっちゃったの?」
「ああ。でもそのうち、なんかいいもんやるよ。」
ふたりはマンションのエレベーターに乗って、部屋に戻った。
「さあ、珈琲を持ってきて呉れ。制作の遅れを取り戻すぞ。」
「僕のために、仕事を中断して呉れたの。」
「まあな。」
「ありがとう。」
「オレはケチなんだ。自分の持ち物をかっさらわれて、平気で絵なんか画いていられないね。」
翌日、スーがきたとき、絵は梱包の最中だった。カイエが珈琲を運ぶのを見て、スーはびっくりした様子だった。
「ちょっと、妬けるわね。あたしなんか、コフィとは幼馴染みだけど、珈琲に触っていいと云われたことは一度もないわ。珈琲に触る権利があるのは、弟のカフィだけだった。」
「カフィって本名なの。」
「もちろん、ちがうわ。コフィだから、カフィなのよ。」
「僕はカイエだよ。」
「そうね。きみはカイエね。」
「僕はカフィぢゃない。」
「わかってるよ。」
コフィがカイエの髪を撫でた。
「早く長くなるといいな。」
2009年1月26日号掲載
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