彼らが郊外に居を構えたのは正解だったよ。そのころの都心部では、それ以前の近隣やドイツ、イギリスなんかからの旧移民とちがって、イタリア南部やロシア、ハンガリー、ポーランドといったところからやってきた新移民たちは固まってそれぞれの領域ををかたくなに守って住んでいたんだ。移民たちは言葉がわからないためにあまりよい仕事ありつけることはなくて、生活も不安定だったけれど、みな故国の記憶をよりどころにしてなんとかアメリカ社会に適応しようとした。つまり、自分たちの文化を求めながら、移民移住区のなかにさらに出身地域別に細かくグループで住み分けをして民族集団としての旧世界の慣習をアメリカに移植しながら維持することで新天地で生きる術を身に付けてった。けれど、例えば宗教にしてもそのころのアメリカ人はほとんどがプロテスタント教徒で、新移民たちにおおくあったカトリックとユダヤ教徒は旧世界の信仰をそっくりそのまま守り通すことはなかなか困難なことだった。だからこそ彼らは文化や教会を守ることによりやっきになってもいったんだけど。
エルは自分が本当はユダヤ教徒であることはロイには告げることなく、彼とともに毎週プロテスタントの教会に通い続けていた。もともと身寄りがなくなってドイツで一人暮らしをはじめたあたりから、さほど熱心なユダヤ教信者であるとは言い難いのだったけど。それでも突如すべてがアメリカ的な生活のなかにほうりだされ彼女は、教会で英語の説教を聴くたびに孤独感を募らせ故郷を懐かしく求め続けていたのだとおもう。そのうち彼の仕事仲間たちと付き合うようになるうちに、ユダヤ教徒であるということどころか自分がポーランド人であることも隠すようになっていったんだ。彼らは度々自分たちの工場で働く移民たちに対して差別的発言をしていたし、ロイはそういったことこそ口にしはしなかったけれど、街で耳の前の髪を長いふさにして生やしているユダヤ人の男などを見つけて嘲笑のネタにするのを、彼女はひそかに傷つきながら受け入れていたんだ。
そんなエルが街である日懐かしいポーランド語の響きを耳にし、やがてその声の主に近づいていったとしてもなんの不思議もないことだった。男はポーランド人の医師だった。その日はたまたま都心部からエルの住む街に出向いていただけのことであったのだけど、彼女はうれしさのあまり自分でも驚くほどの気さくさで見知らぬ男に話しかけてしまったんだ。彼らは急速に親しくなり、やがて彼女はそこから歩いて一時間ほどのところにあるシナゴーグの存在を知り、度々理由をつけては土曜日に出向くようになっていった。彼らは熱心な信者としてというよりはただ故郷を懐かしむ友人同士として会うにすぎなかったのだけど、エルはワイエスの絵の女のように遥か遠くに求めた「家」をロイではなくて、その男のなかに見いだしていくことで孤独から逃れたのだとぼくはおもう。それはロイとの間に子供をもうけるまでのほんの数年間の間のことだったけどね。
2004年4月26日号掲載
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