「ねえ、何か飲むものあるかな」
タッフィは、のどを(のどのあたりを)その短い手でくいくいと指し示した。
「やあ、気が付かなくて。いま湯をわかすよ」
わたしは流し台へ湯を沸かしに立った。やかんに水を入れながらそっと振り向いてみると部屋の真ん中に小さな茶色のかたまりがふわふわと幻影のように揺れている。夜が明けたのか新聞屋がばたばたと配達して回る音のなか、やかんから立ち上る蒸気を見ているうちめまいを感じてしゃがみこんだ。物音に気が付いたタッフィがかけより「大丈夫かい?」とやはり短いその手をわたしの肩にかけて「そうだな、これからきみに話をしにくるものたちには、なにか、アメ玉のひとつでも持ってこさせるようにしよう」といって微笑んだ(おそらく)。わたしも微笑み返して欠けた茶わんに白湯を注いで差し出すと、彼はそれを飲むということはなく白い湯気をしばらく見つめていただけであった。
エルはぼくに三度の食事と入浴の世話をした。もちろんぼくは今のようにはなすこともないし歩くこともない。ただ座っているだけだ。でも、彼女にはマーロンの声が聞こえるかのように返事をしたり、歌を歌って聞かせたり、ときにはたしなめたりするんだ。買い物や銀行に出掛けるときにもどこにでもぼくはつれていかれた。エルの愛情は何も生まず、なにも育てず、返事はおろかまばたきすらしないぼくに注がれいつまでもただ空中を漂っていた。
ある日の午後のこと、ぼくは西の窓から差し込む光をひどくまぶしいと感じ、立ち上がってベッドから降りると歩いて窓際までカーテンを閉めにいったんだ。初めての感覚だった。意識ははっきりとなって、声もでたよ。でもそれは、エルを慰めるためのものではなかった。結果的には慰めたのかもしれないけど。窓辺に立ちカーテンのすき間から外の風景を眺めていたぼくは、食事を運びに来たエルに気が付き振り向いた。彼女は駆け寄って「マーロン、やっとたっちができたのね!」といってぼくを抱きしめた。ぼくはいった。「それでママ、あの野うさぎは助かったの?」って。それまでは見るものはすべてモノクロームでだったんだけど、そのときから色というものが見えるようになった。涙を流しているレイの目を見て、人は泣くと目が妙な色になるんだってそのとき始めて知ったんだ。
2004年8月9日号掲載
(以下次号)
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