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「おやまあ、どうしたんだい。今度入ったお嬢さんかい」
 門から入って玄関をそのまま通り過ぎ、母屋を回って庭に現われたのは、大家の小父さんだった。
 要は塀の陰にしゃがみこむと同時に白いブラウスを投げ、すずねはそれを肩先にひっかける。そして、
「きゃっ。ごめんなさい。洗濯物が落っこっちゃって、つい」

   と、大家のほうに向き直って、ぺこんと頭を下げる。みごとな連携プレイ。
「息子んとこは共稼ぎなもんだから、いつも昼間はいないからねえ」
 小父さんは怪しむ様子もないようだ。「ごめんなさーい」すずねは肩をすくめて舌を出す。
「まあしょうがないよ。帰りは、こっちから出ていいから」
 小父さんは表玄関のほうを指さすと、塀ぞいの棚に幾つも並べた盆栽の手入れを始めた。
「うちのほうも手狭になってきちゃってね。ここに置かせてもらってるわけだわ」
「そうなんですか。じゃあ、すいません、こちらから出させてもらいます」
 隠れて聞いていた要は、ほっと胸をなでおろす。
 すずねは、はだしのままパタパタと大回りをして、やがてアパートのドアが開く音がした。
「カナくーん。台所の流しのところにタオルがあるから濡らして持ってきて」
 何か大事なことかと思ってタオルを掲げ持っていくと、すずねは玄関先に腰をおろして、真っ黒になった足の裏を拭きはじめた。

 

 

「ああ、恥ずかしかった。見て。真っ黒よ」
 何かの木の実のように艶々したすずねの足指。
「案外と簡単だったよね。ブラウス、ありがと。やっぱり用意しといてよかった。あれ、さっきの紙袋は?」
 それは縁側に放り出されたままだった。
「何が入ってるんだろ?」
「たぶん……」
 がさがさと折り曲げた口を戻して、中から取り出されたビニル袋からは、セーターが出てきた。
「こんなもの、持ってきちゃって、大丈夫なんだろうか」
「だれも、なくなったことにさえ気づかないと思う」
「そうかなあ」要は首をひねる。
 ざっくりとした糸で編まれたアランセーター。物置に入れておいたからだろうか、あちこちが黄ばんでいる。縄目模様が少しゆがんでいるのは、手編みだからだろう。
「手編みのセーターだわ、これ」すずねが言った。
「って、ほんとにこれを持ってこいって、さっきのが言ったのか」
「わからない、私には見えないし、聞こえないもの。ただ、そう言われた気がしただけ」
 その瞬間―― <後悔> に満ちた、あの水色の気配が濃厚に立ちこめた。

 

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