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    text/税所たしぎ

 

 

 

 

 幼稚園のおゆうぎでも劇でも鼓笛隊でも運動会でも、お母様方にうらやましがられます。百合子さんは何でもおできになるのね、うらやましいわと言われるたびに身の縮む思いがします。一度園長先生が、百合子さんは才能に恵まれていて本当に楽しみなのですけれども、そろそろそうではないお子さんを思いやることを少しずつ学んでいったほうがよいですねと、面談でおっしゃったことがあります。私はつい大きくうんうんと頷いてしまいました。
 けっしていばりたがるわけではないのですが、折々に、なんでだれだれさんはこんなことがおできにならないの、というようなことを口することが多くなってきたころでした。それで園長先生に、どのようにすればよろしいのでしょうかと尋ねましたところ、優秀で恵まれているほど、人のことを思いやる気持ちにおいても優れていなければいけないということをわからせることでしょうとおっしゃいました。私にはよくわかりませんでしたが、そのあとで園長先生から百合子に何かそのようなお言葉があったようです。
 しばらくして百合子は生真面目な顔でこのようなことを言いました。ピアノやバレエや折り紙が上手だからといっていばりんぼうになると、そういう人がいばってばかりのいやな世の中になってしまって、上手じゃない人が苦しくてつまらない世の中になってしまうのですって。上手にできる人はその力をうまく使って、上手じゃない人も楽しくておもしろい世の中にしてさしあげなくてはいけないのですって。たしかこのような内容でした。主人にその話をしますと、それはノーブリス・オブリージュの概念に近いかもしれないと言いました。それは何かと問うと、もともとは封建領主の貴族の高貴な義務のことなのだが、この場合はエリート官僚の心構えに近いようなものだと説明してくれました。そしてことのほかうれしそうな顔をしていたのでした。
 たぶん園長先生が、かんで含めるように百合子が心の底から納得できるように説明してくださったのでしょう。それからはあまり、だれだれさんはなんでできないのかしらというようなことは言わなくなりました。
 本当に園長先生はすばらしい方だったと思います。甘えん坊で利かん気の子供にも、内気でおとなしい子供にも、そして人一倍理屈っぽくて理屈の通らないことのきらいな百合子のような子供にも、それぞれに合った接し方をしてくださっていたのです。