あまり飛ばすような泳ぎは得意ではないが、ひととおりは泳げる。子供のころ通わされていた水泳教室のおかげである。ウォーキングでアップして、クロールと平泳ぎで
400mのロングを数本泳ぐ。最初の1本で呼吸があがる。再び顔を水中に没する瞬間が拷問のように感じる。ゴーグルの向こうにとなりのコースで泳ぐ人のキックの泡がらせん状に光る。照明がプールの底の白いタイルに反射している。夜のプールは少しぜいたくな感じがした。休憩をはさんで何本か目からは、急に楽になってくる。よぶんな力が抜け気持ちよく泳げる。
営業終了時間が近づいたのでプールからあがりプールサイドのジャグジーで体を休めていると、いったんプールサイドからいなくなっていた涼が現れ、ジャグジーのそばにあるプラスチックのベンチに腰を下ろした。
「ここ、入ったばかり?」
「ううん、もう1年通ってる。いつもは午前中なの」
「そっか。おれは午後か夜しかいないからな」
「国枝君がいるなんて知らなかった。すっごい久しぶり」
「大学んとき、同窓会やって以来?」
「わたし行けなかったんだ、だから高校のとき以来」
「うひゃー、でも変わってねえ」
「無礼だわ」
まんざらでもなかった。その夜はその程度の軽い会話を交わして別れた。
軽く寝息をたてている美李をそのままにして車を離れた涼は、板を抱え石段を数段降り、浜辺で入念にストレッチする。真横から鈍い金色の日を浴びて波打ち際に立つ。急に深くなっているのか、浜全体の水際で盛大な爆音をたてる背丈を超すようなショアブレイク。海に入るときも出るときも、その断末魔のような暴力的なパワーは憂鬱だが、その向こうには規則的なスープがいく筋も見え、さらに先のブレイクポイントには微かなオフショアに舞いあげられた紗のようなスプレーが待っている。タイミングを見計らって、小さな崩れ波を飛び越え、えぐれた海面に板ごと身体を投げ腹這いになる。そしてピークをめざしてパドリングを始める。うまくカレントに乗って大きく迂回してたどりつくと、そこでは知った顔が数人波待ちしていた。
「おはよう」
「波上がってくれてよかった」
「たまにアタマってとこかな」
「十分十分」
海外のサーフィン映画や雑誌記事などでは波高は何フィートと表されることが多いが、日本のサーファーの日常会話では波の高さはスネ、ヒザ、モモ、コシ、ハラ、ムネ、カタ、アタマ、アタマオーバー、アタマ半、ダブル、トリプルと、身体を基準にして表現される。涼は、それが身体と自然の力が一体となった波乗りの本質を示すような気がしている。ヒザ波の密かな楽しみ、ハラムネ波と仲間たちとの心地よい交歓、ダブル波の緊張と快感。
高気圧の勢力圏でしばらく波のなかったエリアなので、表情はみな明るい。近くに浮いて話を交わしながらも、視線は遠い沖のセット波の物見をする。
なぜうねりはセットとなってまとまってやってくるのだろう。涼には、それが命の拍動、巨大な生き物の呼吸のように感じられる。穏やかに水面がゆらぐひとときのあと、そそりたつうねりが何本もやってくる。そしてまた穏やかな時間が流れる。その起伏に自分の心がしだいに同調してくるのだ。
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2005年6月20日号掲載
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