「絶対違う、純一のことじゃないって言ったんだけど」
という前置きつきの話ではあったけれども、一部で悪意のある噂がささやかれているというのは否定しようのない事実だった。だれが言い出したのか知らない。なぜそんな話になったのかわからない。やがて尾ひれがついてまったく別の話になっていってしまうのかもしれなかったが、美李には正体がつかめないだけにいらだたしく腹が立った。
あのとき兄は連日の残業で過労気味だったのではないか。それなのに自分の体力を過信していたのではないか。変死扱いで司法解剖されるという悲しみまで加わったが、心臓がぱたっと止まってしまった原因は結局はっきりしなかった。突然の心臓発作が、花嫁を迎える日を指折り待っていた明るく頼もしい青年の命を奪った。波待ち中に突然サーフボードから落ちて沈んでいったというのは事実だが、流されながら前年にテトラに挟まれて死んだという女の子の名前を呼んだとか、その女の子が彼女だったという話は嘘っぱちだ。ふだんから同じ海に入っていたのだから顔ぐらいは知っていたかもしれない。挨拶を交わすこともあったかもしれない。それしかその女の子と兄との接点はなかった。だいたい兄と婚約者とは高校時代からの周囲も公認の恋人同士だったのだ。
兄の身近な海友達は、純一の波乗りはうまかった、他人を危険に巻き込むような奴ではなかった、オンショアの荒れた海でも突っ込んでいくようなところや、ルール無視の行動をとるやつには黙っていられないところはあったけれども、本当にいい男だった、あんなラジオの与太話とはまったく関係ないと、口をそろえて言ってくれた。
人は忘れやすい。噂は、やがて消えていく。噂の悪意も、なぐさめの善意もどこかへ消えていってしまう。しかし兄を失った悲しみは癒えない。癒えない悲しみは苦しくてたまらない。美李の生活から海にまつわるものが消えていった。そして兄の海友達と会うこともなくなっていった。命日に寄ってくれるが、両親は昔みたいだと喜ぶが美李はその場に顔を出さない。婚約者は心の病を得、長く患い、転職し引っ越していった。いまでもときどき長い手紙が来る。そして美李と苦しみを分け合う。いつか彼女の前に新しい道が開ければよいと思う。新しい恋人をつくり幸せになってくれればよいと心から思っている。それなのに、いまだ彼女は殻から抜け出すことができない。
美李には、息子を失った両親と励まし合いながら共に生きていくという日常があった。両親にも、傷つきやすい年代に仲のよい兄を失った妹を育てあげるという仕事があった。海を忘れることで折り合いながら、家族は平穏のようなものを保っていくことができた。しかし永遠の愛を誓う結婚式の直前に愛する男を失った女を立ち直らせることは、いまもって美李たちにはできないでいる。
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2005年7月24日号掲載
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