夜明けの冷たい空気、霜にふちどられた砂浜に一歩一歩踏み出していく、その向こうに広がる海、広がる空、整然としたうねり、レースのようなブレイク、何もかも尖っていて、何もかも透明で、何もかも輝いている。兄は、ある冬の早朝、無理やり波チェックに美李を付き合わせ、そのようなことを言っていた。美李は眠くて寒くてそれどころではなかった。
兄の言っていたのは目の前に広がるこういう風景のことなのだと、美李は、体全体で音と、色と、匂いを感じる。自然に涙が滲み出てくる。鋭い朝日がしみるのだと自分に言い訳しながら袖で涙をぬぐう。何度もその動作を繰り返す。ダウンの袖がすっかり湿ってしまった。
どのぐらい時間がたったのか、日はかなり高くなってきた。防波堤のコンクリートも日差しに温められ、先程よりだいぶ過ごしやすくなっている。沖から手を振ってくれたので、ようやく美李には涼が見分けられるようになった。兄さんとどっちがうまいのかしらと、涼の波乗りと記憶の中の兄の姿を重ねてみる。海で泣くという行為が何らかのカタルシスをもたらしたのか、兄を思い出すということが思ったほど苦しくない。
涼が戻ってきたら、昔のように自然に振る舞える気がした。わざとらしくなく「クニ」と呼べるかもしれない。
「あ、あ、すごくあやしい、女の子の匂いがする。いい香り、オレンジの香水の匂い」
正直に言うべきか言わざるべきか。涼は、久しぶりのデートで、犬がじゃれつくように腕を絡め肩に頭を寄せてきた奈々海の瞳の際立つ浅黒い顔から目をそらす。
あまり長いこと悩まず視線を奈々海に戻すと、スポーツクラブでの再会から居酒屋での二人だけの同窓会、そして伊豆へのサーフトリップの話をすることにした。海に入っている間、ずっと美李が涼のダウンを着ていたことを話し、香りの正体を明らかにする。
奈々海の細かい質問をはさみながら、一度二度三度、話を繰り返すたびにだんだん微にいり細にわたっていく。奈々海の怒りは、話の整合性と、結局はいつものように波乗りの話に偏っていく涼の様子で、おさまっていった。しかし、
「黙って女の子と出かけたことは許してないからね」
と牽制は忘れない。
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2005年8月1日号掲載
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