初めて読んだのは数年前だった。幅広く自由なジャンルの作品を連載しているコミックビームの中で、なぜか忘れられない存在感があった。
画風はあまり際立った特徴がなく、繊細な線や登場人物の豊かな表情は少女マンガのようでもある。しかしここで描かれているのは、「恋愛」や「友情」など、もはやステロタイプになってしまった言葉でくくることがためらわれるような、少女たちの抱える小さな心の傷のようなもの。大抵ならほんの些細なことなのですぐに忘れてしまったり、あまりに直視するのがつらいから見ないようにしているものだ。
思春期には、自分が、特に人とのかかわりの中でひどく不安定で手に負えないものになってくる。そして、その小さな傷がほんの小さなトゲになってからだの中を巡り、いつまでも自分を苦しめ続けることがある。そんな繊細な心の揺れ動きを丁寧にすくいあげてみせたのが、安永知澄氏の『やさしいからだ』である。
人には、人と触れ合いたいという切実な願いがある。それなのに、その先には一筋縄ではいかない、戸惑いや傷付けあいが常に予期されているし、実際ヒリヒリする現実がある、ということをぼくは高校の頃からやたらと苦にしていた。少し考えてみれば誰でも少なからず通る道であるはずなのに、ぼくの周りでそれをうまく言葉にした人はいなかったように思う。いや、誰かが言い当てても反発して聞こうとさえもしなかったのだろう。
そんな自分が大学生の2、3年の時期に『やさしいからだ』を繰り返し繰り返し読んでいたのは、積み重なった名状しがたい“おもい”を代弁してくれる作品だと思ったからかもしれない。これを読む時、ピリピリと逆立っていた神経がとろけて、鎮められるように思う。痛みが、やさしく描かれている。
安永知澄氏は2001年のデビュー以来、短編作品を多く発表している。いずれも何かしらの“おもい”を確かな視線でとらえ、登場人物に託して物語を作り出している。作者という“私”が語るのではなく、登場人物である“私”が語るということ――安永氏は本作第3巻のあとがきで「客観」について述べている。おそらく「客観」という視点を持ち続けることで、作者と登場人物の境界線が保たれ、一人ひとりの心情を突き詰められるのだろうとも思う。
この作品は、主観と客観、明と暗、虚構と現実、高潔とエロティシズムなど数々の非常に不安定な対立を抱えながら、ひたすら人の内面そのものというリアリティを“見つめ”続けている。この、際立ってリアルで、しかしフィクショナルという危うさを持ちながらバランスを保っている強さが本作の魅力だ。大好きなマンガ、宝物の一つである。
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