自分が何者かなんてわかりゃしない――なんてわざわざ言葉にするまでもない言葉を今でもどこかで抱えている。周りの人より少し長く、確かな社会的地位を持たずに時間を費やしていると、自分自身の不確かさにやたら敏感になってしまうのだろうか。それでも、時間は過ぎていくし、社会は動き続ける。全てが自分をも呑みこんで流れ続け、自分はその中に何とかして残ろうとし、また溶け込んでいこうとする。このどこにも属しようがない気持ちを浅野いにお氏の作品は描き続けているように思う。
「先生の作品は浅く感傷的すぎると批判されることがありますが、その一方で閉塞感の続くこの時代において、一部の若者から熱狂的に支持されています。時代に共感されることについて、ご自身はどうお考えですか?」(p.233)
作中で、インタビュアーはこう質問している。確かに、この“非属”への気持ちを突き詰めて、何か言おうとすると感傷的な色合いを帯びてしまうのは必然ともいえる。ぼく自身、自分のモヤモヤしたものを人に伝えたこともあるし、今でもそう言いだしそうになるが、たいてい「自分だけが悲劇のヒーロー気取って」と返され、また相手の戸惑った顔に苦い気持ちを抱いて口をつぐむしかなくなる。言っても詮無いことだし、そもそもこの感覚はきわめて個人的なもので、共有されるにふさわしいものではないのだ。
そんな気持ちを抱えていても、誰かと分かりあえるその瞬間は輝いて見える。登場人物がどんな人物であれ、根っこのところで誰かを希求していることは共通している。全編を通して主人公全員が妙にいとおしく、それぞれの想いが痛いほどに沁み込んでくる。
彼らの想いは表情からではなく、主に風景の描写から映し出される。もちろん風景=自分自身ではないし、本当にふと気がついたらそこにあった、というようなものだ。そこにはまるで手を差し伸べるような光があり、彼らを圧倒するようで包み込むような巨大さが、静かに存在している。今ぼくはどうやら、自分と“一部の若者”と作者の視点を混在させて書いてしまっているようだ。その良し悪しについて今は措くが、少なくとも本作には世代的に共有できるような感覚が映し出されていると思う。たとえそれが感傷的だ、と言われてもいい。短編という形式で、しかも「単純にいいものを作ろうと思って」(p.233)生み出された作品には、作品や個人を取り巻くフィルターをできるだけ取り除いた人の想いが、ほぼむき出しになって描かれていると思う。浅野いにお氏の作品は私的な独白にも似て、今更ながら手放せないことを感じている。
< 久住昌之/谷口ジロー 『孤独のグルメ』 |
| | 中村明日美子 『同級生』> |
>> | |
▲PAGE TOP |