古今漫画夢現-text/マツモト

花郁悠紀子『アナスタシアとおとなり』

絵本を読んでいるかのような
豊かな子どもの視点

少女マンガを意識して読むようになってからまだ日が浅い。たとえば大島弓子は『グーグーだって猫である』が映画化されたのがきっかけで読み始めたし、萩尾望都は「パーフェクトセレクション」という傑作選の発売が目を引いたのだった。他にもダ・ヴィンチで連載中の『舞姫 テレプシコーラ』が小学校の頃の『アラベスク』を思い出させ、あらためて新鮮な気持ちで読んでいる。食わず嫌いじゃないけど少女マンガも実は面白いんだなあ、などという話をしていると叔母が部屋から出してきたのが萩尾望都の『ポーの一族』、そして花郁悠紀子の単行本だった。一見して“昔ながら”の画風。目の奥に星空、背景にちりばめられるバラ。『さよなら絶望先生』(久米田康二)の“ページぶち抜き4段画法”ではないが、1ページ分使ったキャラの全身像。初めてなのになぜか懐かしく読んでしまう。

花郁悠紀子(かいゆきこ)は、1976年から1980年にかけて活動したマンガ家で、胃がんのために26歳という若さで夭逝された。彼女は萩尾望都や大島弓子、山岸涼子など「24年組」と呼ばれる1970年代に活躍した漫画家の後輩筋にあたる「ポスト24年組」に位置づけられるのだそうだ。そういえばその家には佐藤史生や坂田靖子も何冊かあったし、叔母はまさに「ポスト24年組」の作品を読んで育ったのである。

花郁氏のマンガは、それからぼくの頭を離れなくなってしまった。その中でも特に印象的だったのが、今回紹介する『アナスタシアとおとなり』だ。SF作家のパパと二人暮らしのアナスタシア。彼女のお隣にオルバー・ケロムとアーシェラという2人が越してくる。2人の使う魔法にアナスタシアは大喜び。彼らとの日々の中で、幼いアナスタシアの想像豊かな世界が生き生きと描かれる。壊れたものを元に戻す魔法や、道具を土に埋めてその道具の実がなる木を生やす魔法をかけると、アナスタシアは自分もとわざと皿や時計を土に埋めては怒られる。オルバー・ケロムはSFを砂糖と小麦粉の意味(Sugar& Flour)だとアナスタシアに教え、彼女はパパにどっさりパンやケーキをプレゼント。そんなクスッと笑えるようなエピソードが詰まっているかと思えば、父と娘の深い愛情に胸打たれることもあるし、アナスタシアの一言にハッとさせられることもある。

子どもの豊かな視点が無理なく、生き生きと描かれている、と言えばいいのだろうか。そう、絵本を読んでいる感覚と似ているのだ。花郁氏のデビュー作でもある『アナスタシアとおとなり』シリーズは、最も彼女の描きたいものを存分に描いたという感じがしていてとても好ましい。自由自在に変化するアングルからは、「読ませよう」「話を作らないと」という肩肘の張らなさがうかがわれる。だからこそ、以降の作品にも現れる感性の鋭さがここで特に反映されているのだろう。

花郁氏は次々と作品のアイデアが湧いてくる方だったとも、臨終の間際にまでマンガを作っている夢を見ていたとも言われている。花郁氏がもっと長い間マンガを描き続けることができたらどうなっていただろうか。自分の病を知ったらどうしていたのだろうか。今となっては知る由もない。しかし、そういえば私はこんな夢を見た。「蛙」と「3月のライオン」という2編の短編。一つは自分の死期を知った主人公の日々を描いたもの、もう一方はまるで『アナスタシアとおとなり』シリーズを思わせるような無邪気で自由で彩り豊かな世界。いずれも彼女が自分の死を悟った後に作られたものだという。モノトーンとカラフル――まるで正反対の絵柄の2作品が同時に作られていたというのだ。これはあくまで私の無意識の想像ではあるが、花郁氏の作品を知ってすぐに私が虜になっていたことはまず間違いないだろう。

2009年8月30日号掲載 このエントリーをはてなブックマーク

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三島衛里子『アナスタシアとおとなり』(秋田文庫)秋田書店 第1巻p.16
オルバー・ケロムがローズ・ティーを淹れると一面のバラに。魔法の世界にたやすく入り込めるのは、幼いアナスタシアだからだろうか。

同p.134
アナスタシアが家出。彼女のモノローグは無気でもあるが、きわめて真率だ。どこに行ってしまうの?!
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