ロブ=グリエの小説を具体的に読んでみたい。

まず、誠に老婆心ながら、ヌーヴォー・ロマンに接したことのない読者に小さなコツをお伝えしたい。劇場で映画を観るとき携帯電話のスイッチを切るように、「無矛盾にしたてられた物語の筋を追いたくなる気持ち」をいったん脇に置こう。いや、ロブ=グリエの小説が支離滅裂だという意味ではない。小説のそこかしこで齟齬が生じたように感じたり、筋を見失いそうになっても、「デタラメに書かれている」と短絡せずに向かい合うことが、楽しむためのコツであると申し上げたかったのである。

そう、性急に「で、これはなんなの?」という白黒のはっきりとした輪郭を求めるのではなく、むしろ読みながら「あれ?」と思ったら、そのわからなさや戸惑いを見つめてみること。そのために、もし手にしている本が自分のものである場合、傍らにペンや鉛筆を置くことをお勧めしたい。そして、なにかを感じた個所があれば、そのことをページの余白に記してみよう。あなたは必ずもう一度、あるいは何度かその箇所へ戻ってくるにちがいないから。

さて、できるだけリラックスして、ページに目を落とそう。ゆっくりと、そこに描写されていることがらを追いながら……。

 だれもそれを聞かなかったようだった。

 汽笛はふたたび鋭く長い音を発し、それから続けて鼓膜が破れそうな――対象物がなにもなく、その音はむなしくひろがるだけだ――激しさで、短い音を三度発した。最初のとき以上に、客のあいだには驚異の声も後ずさりもおこらなかった。どの顔にも、表情ひとつ動かなかった。

 一群の静かな、平行的な、ほとんど不安なほど緊張した視線が、まだ目的地をへだてて、しだいに少なくなる距離をこえ――こえようとし――あらそっている。ならんだ顔がみな同じ表情を浮べ、仰向いている。濃い、音のない、最後の蒸気が、それらの顔の上の空中で尾をひき――現われたかと思うと、たちまち消えていった。

その小説は、こんなふうに始まる(とりあえず作品名は措いておこう)。汽笛を鳴らしながら移動する蒸気船の光景だ。なんだ、さんざんもったいをつけたわりには、ごく普通の文章ではないか、どこがヌーヴォーだったり難解だったりするのか、と拍子抜けしたかもしれない。そう、問題はない。 

 煙が描かれたあたりのうしろ、やや離れたところに、ひとりの客が、他の船客の期待とは無関心に立っていた。汽笛は近くの他の旅客を興奮からひきはがすことができなかった以上に、彼を放心からひきはなすことができなかった。他の船客と同じように突っ立ち、身体や手足をこわばらせたまま、彼は甲板を見つめていた。

 船上の光景から、映画のカメラが移動するように、作家の筆は旅客のなかにいる「彼」に注意を向けてゆく。「彼」が誰なのかはまだわからない。ともかく「彼」は船の上で突っ立ったまま放心している。 

 彼はしばしばこんな話を聞かされていた。まだ子供のころ――たぶん二十五年か三十年くらいまえ――彼は大きなボール箱、古い靴箱を持っており、紐のきれはしをその中に集めていた。しかし紐ならなんでもかでも集めていたわけではなく、質の悪いものとか、使い古されてあまりにもよごれ、形が崩れたり、糸がほぐれたものは集めなかった。またどんな面白いことにも役だちそうもない短すぎる紐は捨てた。

作家は「彼はこんな話を聞かされていた」という一文を置いて、ここから「彼」の記憶を記すというサインを読者に送っている。「たぶん二十五年か三十年くらいまえ」という一文も、この件が、記憶をたどる「彼」の意識を記したものであるらしいことを窺わせる。

 それはたしかに役だちそうだ。8の字形にきちんと束ねられ、真ん中できつく螺旋状に束ねられた完全な、細い麻紐だった。かなりの長さで、すくなくとも一メートル、あるいは二メートルはあるにちがいない。だれかがきっと、いつか使用するつもりで――あるいは収集のためかもしれない――束ね、そのあと、うっかり落としてしまったのだろう。

文頭の「それ」とは紐の束のことだ。それは誰にでもわかる。でも、ひょっとするとこの時点で、これが、小説のなかのどの時空での出来事であるのかがあやしくなってきたかもしれない。

いま「彼」の目の前にある紐の束は、どこに落ちているものなのか。これは船上でのことなのか、それともかつて紐を集めていた少年時代の記憶のなかでのことなのか。

 マチアスはそれを拾うため身をかがめた。立ちあがったとき、数歩右手に、静かな大きな眼でじっと彼を見つめている七、八歳ぐらいの少女に気がついた。彼はつくり笑いをした。だが少女は笑いかえそうともしなかった。数秒後、彼は、少女の瞳が、彼が胸の高さに持っている紐のほうに移るのを見た。まえよりこまかく調べたが、失望することはないし、まったくうまいものを拾った――あまり派手ではなく、見事に、きちんと束ねられ、見るからに強そうなものである。

「彼」がマチアスという名前であるらしいことがわかる。マチアスは見つけた紐を拾い、満足する。それを見知らぬ少女が見ている。

 ふと彼は、ずっと昔なくしたものに、それが似ているような気がした。それによく似た紐は、すでに彼の思考の中に重要な位置を占めていたのにちがいない。他の紐といっしょに靴箱の中にあったやつだろうか? 記憶はすぐ、紐がなんら明確な役割をおびていない、ある雨景色の、水平線も見わけられぬ光のほうへすべっていった。

 いまはただ、それをポケットにしまうだけだ。だが彼はそんなしぐさをするだけで、依然として腕を優柔不断に半分曲げ、手を見つめていた。爪が長く伸びすぎている。彼はそれを知っていた。そのうえ、爪は伸びるうちに、おそろしく尖っていた。無論、彼はそんなふうに爪を切ったことはない。

どうだろう。ここまでのところでわかるのは、この小説では三人称をとりながら、マチアスという名前の男が知覚している《現在》と、彼が想起する《過去》の記憶とに焦点を当てているということだ。これは小説の最後までほぼ一貫している。


いましがた読んだ最後の段落をもう一度見てみよう。ここでは紐がきっかけとなって、マチアスの意識が現在(知覚)と過去(記憶)を往復する。そのさい、彼の記憶はぼんやりとして曖昧で、かつ移ろってゆくことにも注意しておこう。TVドラマや映画の回想シーンでは、しばしば過去の記憶が記録映像を再生するかのように、くっきりと表現されることがある。しかし、言うまでもなく私たちの記憶はけっしてそんなふうに「再生」されたりはしない。


「同じ」過去のことがらを思い出すにしても、思い出そうとしている、あるいは不意に思いだしてしまったそのときの状況や体調や直前に考えていたことなどもあいまって、はっきり記憶にのぼってくる(ように感じられる)ことがらもあれば、同時になにかがつっかえたように出てこない記憶もある。また、「同じ」過去の出来事を想起するそのつど細部が微妙にくいちがっていることもある。記憶とは、過去についてのものでありながら、常に現在においてそのつど反復的に生成されているのだ。


そして、現在目の前の出来事を見たり聴いたり触ったり嗅いだり味わったりすること、要するに知覚することは、いつもただいま現在自分の身に現在進行形で生じると同時に、そこには幾分記憶が作用しているはずだ。


簡単な例を挙げてみよう。いま日本語で書かれたこの文章を読んでいるあなたは、コンピュータのモニターやそれを印刷した紙面に記された文字を読み(知覚し)ながら、そこにあらわれる言葉を、過去に記憶した言葉の意味と結び合わせつつ理解しているだろう(そうと意識はしなくても)。ひょっとしたら、ここにあらわれた「汽笛」や「紐」や「爪」、あるいは「女の子」や「マチアス」といった言葉や情景から、「いつか横浜の港で耳にした汽笛や潮の香り」とか、「どう結んでも300メートル歩くごとにほどけてしまうあの靴紐」といった、なんらかの記憶を甦らせていさえするかもしれない。


私たちの意識の活動は、そんなふうにして知覚と記憶(と無意識)とが絡み合っていると考えることができる。


マチアスは拾った紐をポケットにしまった後で、じっと我が手を見る。そこで我が事ながら、爪が長く伸びすぎていることに気づき、それについてなにごとかを感じている。ここでも、いま目の前で見ている自分の指の爪の知覚と、そんなふうに切ったことはないという記憶とが意識のうえでからみあっている。 


小説の冒頭部分ということもあって、ロブ=グリエはこの小説がどのようにものごとを描写してゆくのかについて、いくらか明示的に記している。


いささか先回りをするようだけれど、この小説は、いまなら「脳/環世界小説」とでも言うべきものではないかと思っている。次回さらに検討するように、小説の冒頭部で示されたマチアスの行動とそれに伴う意識の状態は、小説が進むにつれて、マチアスの知覚なのか記憶なのか定かでないような領域へと入りこんでゆく。


これは言うなれば、人間の脳が作動する様子を見ているようなものだ。とはいえ、単に脳が水溶液かなにかのなかで活動しているわけではない。マチアスは、或る場所や時間といった環境のなかに存在し、生きて行動している(人物として描かれている)。つまり、或る環境のなかで行動するマチアスが、環境からどのように触発されたかということを、もっぱらマチアスの知覚と記憶に注視しながら描いたのがこの小説、ということだ。


なにやらまたしても当たり前のことを回りくどく述べたてているように見えるかもしれない。第一、登場人物が或る環境のなかで行動するのはわかりきったことにすぎない。それに、そのとき登場人物がなにを感じたかを書くのもこれまたどんな小説でもやっていることだ。ではいったいなにがロブ=グリエの小説で起きているというのか。小説そのものに寄り添いながら、さらに読んでいこう。

2008年3月31日号掲載

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