マチアスは、時計の行商を生業としている。時計を入れたアタッシェケースを手に、かつて生まれ育った島へと船でわたってきた。前回読み始めた小説の冒頭部分は、島へと向かう船の甲板にたたずむマチアスの様子を描いていたのだった。
作家は、その男の意識の動きに焦点を当て、彼とそれをとりまく環境とのあわいで、その知覚と記憶がおりなす出来事を丹念に描いていた。冒頭部分ではまだ、知覚と記憶の境界は明示的であることを確認した。だが、叙述が進むにつれて、この意識の運動は、水中で溶け合う二色のインクのように混じり合い、混然としてゆく。今回は、作家がそうした状況を描くために、どのような技法を駆使しているか、その様子を見てみよう。
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マチアスは、しばしば皮算用をする。彼のアタッシェケースにある90個の時計が全て売れるとどうなるか。時計一つの価格を平均200クーロンヌとすると、都合18,000クーロンヌ。粗利益を30パーセントと仮定すれば、およそ5,000クーロンヌ(より正確には5,400)。島への船賃は往復で60クーロンヌ。
島には約2,000人の住民がいる。実際には島に来る前に一つ売れたので、残り89個の時計をどう売ればよいか。彼の頭のなかではこんなふうに計算が進められる。
おそらく訪れることがないような離れすぎた家を考慮し、徐数として一〇〇軒という数字を想定した。すると二〇人について一個の時計を売ることになる。――一家族平均五人とすると、四世帯について一個売ることだ。無論彼は経験上、実際は予定通りにならないことを知っていた。同じ家でも、彼にたいし好意をいだいた場合は、いっぺんに二、三個の時計を売るのに成功した。しかし四軒ごとに一個というペースはむずかしいだろう――だが不可能ではない。
船が週に2回しか出ないことを考えて、島での滞在は1日限りとする。午前10時に到着し、島を離れる船に遅れないためには、 午後16時15分までの6時間15分が持ち時間だ。それが皮算用に過ぎないことを承知しつつも、マチアスはその計算をさらに確実なものとするために、持ち時間を分数に換算する。375分である。
三七五割る八九……三六〇割る九〇とすれば答えはすぐ出るじゃないか。九掛ける四、三六――一個について四分。正確にいうと、すこし余裕がある。(中略)四分間をマチアスは商売に要する理想の時間と考えようとした。
4分に1個の販売! 移動やその途上での出来事や住人の不在や不買の可能性は措いておき、彼は純粋にすべての在庫がはけるための計算をしている。ノイズや摩擦や偶発時だらけの現実世界のなかで、彼は自分の行動を律する指針を、最高の合理性(ご都合)をもって計算し、このシナリオにそって物事が運んだ場合、どうなるかをシミュレーションする。少し長くなるがこの空想の様子を見ておこう。そのスピード感の可笑しさに注目されたい。
町はずれの、灯台への街道に面した最後の家は普通の家である。二個の小さな四角い窓にはさまれた低いドアのある平屋の家屋。マチアスは通りがかりに手前の窓ガラスを叩く。そこにたちどまらずに、つづいてドアを叩く。その瞬間、ドアは彼の目の前で開く。彼はすかさず廊下にはいり、直角に向きをかえると、台所のなかで、早速大きなテーブルの上にアタッシュケースを平らにおく。すばやく留金をはずす。バネ仕掛のように蓋がはねる。上側にはいちばん高価な品物がはいっている。彼は左手で最初のボール箱をとりあげ、右手で覆いの紙をはぐり、指で、四二五クーロンヌの婦人用の時計を三個示す。家の女主人は両側から年上の娘たちにはさまれ(彼女らの母よりわずか背が低く)――三人とも動かず、注意ぶかく、彼のそばに立っている。すばやく、完全に同じ動作で、彼女たちは三人ともうなずく。すでにマチアスは、ボール箱から三個の時計を一個ずつ出し――ほとんどひったくり――一個ずつ、手をさしだした三人の女たちに、母を最初に、つづいて右側の娘、つづいて左側の娘にわたす。準備された金額はテーブルの上にある。一〇〇〇クーロンヌ札一枚、一〇〇クーロンヌ札二枚、二五クーロンヌ銀貨二枚――一二七五クーロンヌ――つまり四二五クーロンヌ掛ける三だ。勘定はあっている。アタッシュケースははげしく閉められる。
立ち去りかけながら、彼はなにか別れの挨拶を言いたいと思った。だが口からはなんの言葉もでない。なぜだが、彼はそれがよく分かる。と同時に、いまの場合は、おかしなことに完全に沈黙に終始していたと思う。
すべての物事が最短の距離、最短のはやさでこなされる。持続した時間の流れというよりは、映画でバラバラに切り離された場面がつぎあわされる(モンタージュされる)ように、行商にとって必要不可欠の場面だけが、それもきわめてありえないはやさで、都合よく、スムースに展開する。前口上や天気の話もなく、女たちは三人揃って(というか、三人もいて!)もっとも高い時計を、マチアスが島にやってくる前から決まっていたかのように求める。時計をわたし、釣銭の必要も値引きの交渉もないままそこに準備されている代価……。
一切の無駄がなく、間違いもなく、誤解もなく、折衝もない完璧な行商。或る家から次の家への移動にどのくらいかかるかわからないけれど、仮に家屋が軒を連ねている場所だとしても、移動に2分は欲しいところ。すると上記の完璧なやりとりは2分で遂行される必要がある。そんな莫迦な。と、ついマチアスの目論見の延長上で計算を補正したくなる。しかしどう考えてもこのシミュレーションは破綻している。第一、売れるか売れないか。彼も重々承知しているように、そんなことはやってみるまでわからない。
小説は、マチアスの行商の予定不調和ななりゆきを基調として展開するのだが、そのさいここで見た理想の行商が母型となって、毎回の行商はそこからの偏差として意識されることになる。
さすがの彼も現実離れした予定だと思ったのか、別のシミュレーションを行う。ただし、それはまだ、船着場から移動する船客の波にもまれて、その歩みに少しいらだちながらのことだ。徐々に知覚と記憶の切り替わる境界線がはっきりとしなくなってゆく。
マチアスは思ったように早く歩くことができなかった。通路の狭さ、複雑さから考えると、前の人々を押してもなにもならない。ただ人の流れに身をまかしていなければならなかった。軽い焦燥感にとらえられる。なかなか人は彼に道をあけてくれない。今度は手を顔の高さにまであげ――板に描かれたふたつの眼の間を――叩いた。非常に厚みがありそうな扉はにぶい音がした。家の中でも気づくにちがいない。彼はまた大きな指輪でもってノックしはじめようとしたとき、入口に足音がきこえた。
この件に書かれた「道をあけてくれない。」と「今度は手を」のあいだに、知覚から記憶への移行が生じている。もう冒頭のような「ここからは記憶が前面化するぞ」といったシグナルはなく、意識のうえの出来事がひと連なりに描かれてゆく。
それはちょうど、私たちの身にもしばしば生じることだ。例えば、よく通いなれた家から駅までの道を歩くとき、途中自分が歩いていた記憶がないにもかかわらず、気づいたら駅に到着していたということがある。道すがら、たしかに自分は或る空間のなかを歩き、いつものように往来する人や車、道をよこぎる猫や電線にとまる小鳥たちがいるその場所を通り過ぎたはず。にもかかわらず、ぼんやりと昨日亡くなった映画作家やチベットの出来事について考えているうちに、そんな移動の経過を意識することもなく、気づけば駅についていた。そんな経験があるにちがいない。
だとすると、先ほど書いた「知覚から記憶への移行が生じている」という言い方は不正確である。マチアスは人波に揉まれ、移動し、そのさなかで周囲の状況を知覚しながら、しかし脳裏では記憶による意識の流れ(記憶を素材として構成された未来についての予測)が生じて、そちらに気を奪われている。だから、より正確には、知覚から記憶へ移行が起きているのではなく、知覚しながら記憶を作動させていると言うべきであろう。
映画であれば、複数の画面や音を透過的に重ね合わせることで、知覚と記憶が輻輳する意識の状態を表現できるかもしれない。例えば、映画全体がそのような重ね合わせで進行するジャン=リュック・ゴダールの『映画史』などは、或る映画作家の意識に去来する知覚や連想や記憶を表現したものとして観ることができる。映像の場合、重ね合わされる複数の画像は、それ以外の方法では達成できないイマージュ(像)を生成する代わりに、その複雑さが観る者を惑わせる。
文章の場合はどうか。それは原則的に線状に書かれている。通常、複数の文章が同一の行を占めることはない。それでも同時に進行する複数の状況を文章で表現しようと思えば、交互に書く、複数の旋律が並行する楽譜のように複数の文章を並行に書く、文章に分岐構造を導入して流れを複線化する、同一の文章を多重の読みが可能であるように書く、といった技法を採ることになるが、いずれにしても一本の線であることには代わりがない。
ロブ=グリエの小説は、始まりと終わりを備えた一本の線という、もっともシンプルな形式を採りながら、その形式の枠内で知覚と記憶の混在する意識を描こうとしている。だから、それは「はい、ここからは回想シーンね」とはっきり知らせるような方法を採らない。むしろ行文は、私たちの意識がそうであるように、自在に知覚と記憶を往来し、あるいはその重なり具合の変化をたどるように進んでゆくのだ。しつこいようだが、便宜上知覚と記憶を区別しているけれど、私たちの経験――こうしているいまも絶えず経験しつつあること――は、両者をはっきりと区別するわけではない。説明や理解のために両者をわけて考えるとしても、この両者はつねに浸透しあい、もつれあっている。
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小説に戻ろう。行商を思い描くマチアスの脳裏では、ノックした扉が開き、警戒的な女性の顔が覗く。
無論、彼女はなにも口をきかなかった。彼は懸命に努力する。《こんにちは、奥さん。ごきげにかがですか?》と、彼は言う。扉は彼の鼻先でぴしゃりと閉まった。
扉は閉まったのではない。依然として閉まりっぱなしなのだ。マチアスはまるで眩暈がはじまる思いである。
ここには、あたかも夢のなかで夢から覚めるような趣がある。行商が失敗に終わった、と思った瞬間、じつは開いたと思っていた扉が閉まったままだった、という。すでに船着場から移動して、行商をはじめているのか? と読み手も眩暈を覚えながら先を見ると、文章はこのように続く。
彼は防波壁のない側の極端に横のほう、端のほうを歩いているのに気がついた。一群の人びとを通すため、彼はたちどまった。
彼はまだ船着場を移動している。しかし、またすぐに彼は或る家の台所に通され、女主人とやりとりをする。時計を見せるためにアタッシェケースを置き、開ける。と思えばまたそこで入口に足音が聞こえ、扉が開き、やりとりの後、台所へ通されてアタッシェケースを置き、開ける……。夢のなかで夢を見るように、入れ子になった意識の回廊をたどると、やがてまた船着場に戻り、今度はようやく町のなかへと進んでゆく。
しかし、ここまでの引用から窺えるように、この小説の読者は、時計行商人マチアスの意識にあらわれる動きを追いながら、いま目の前で展開する光景――読者が読みつつある文章――の位置が、常に後からやってくる文章によって揺るがせられるという読書の経験を積み重ねることになる。だとすると、船着場から町中へという移動も、いつそれが記憶のなかのことだと覆されるかわからない。
ちなみにこのような構造を、物語の楽しみのために特化したのが探偵小説である。典型的・古典的な探偵小説では、事件がもちあがり、さまざまな証拠が提示され、最後にその真の意味を探偵が解き明かすという仕組みを採っている。準備段階を通じて提示された状況の意味を、最後に探偵が読み替えてみせる手際の鮮やかさ、いわゆるどんでん返しの驚きが、読者の目に包み隠されず提示されていたはずの状況と、それに対する意外な解釈の落差から生じる。私たちは謎への興味に惹かれて読み進め、最後に「あ!」と声をあげる。
ロブ=グリエの小説は、あからさまな探偵小説ではない(じつは犯罪とその露見といった要素はここで読んでいる小説にも含まれている)。しかし、いわばそうした小さなどんでん返しが動きやまぬさざ波のように後から後からやってくるという、「アルゴリズム」とでも呼びたくなるようななにかに駆動されている。アルゴリズムとは、コンピュータの用語で、或る問題を解くための解法手順、あるいはそれを実現するためのプログラムを指す言葉だ。
前回、気がかりなことを余白に記すことを勧めたのは、ロブ=グリエの文章が、このような構造をもっているためであった。
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次回は最終回として、もう一つ別の角度から、この小説がもたらす愉悦を述べてみたいと思う。
2008年4月7日号掲載
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