時計の行商人であるマチアスの知覚と記憶の動きを記述するロブ=グリエの筆は、どこに焦点を当てているだろうか。
作家は三人称を選択して、マチアスを「彼」と呼びながら、あたかも人間の意識が環境からどのような触発を受けて、どのように活動するのかという、意識と環境のインターフェイスで生じる出来事を凝視しているかのようだ。
いくつかの具体例を通じて見てきたように、それはけっして単線的であったり、誰の目にも白黒や意味がはっきりした記述ではなかった。むしろ、読み進むにつれて、いま自分が目を通している文章が写しているのが、はたしてマチアスにとっての現在の知覚なのか、それとも記憶なのかが判然としなくなってくるような、両者が重なり合い混在するような状態が描きだされていた。
このような文体の特徴をさらにはっきりさせるために、ここでアレクサンドル・ソクーロフの映画『エルミタージュ幻想』(2002)〔Russian Ark〕と比較してみよう。
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真っ暗な画面に音が聴こえてくる。人びとの声、馬のいななき。「目を開けても何も見えない……私に何が起きたのかは覚えていない」という声。
ゆっくりと画面に光がさしてくると、そこは建物の外であるようだ。舞踏会にでも参加するように着飾った男女が、馬車で到着しては建物に入ってゆく。
どうやらカメラは、この声の持ち主の視線と一致しているようだ。監督自身とおぼしきこの男=カメラの姿は、他の人びとからは見えていない。男は、男女にまぎれて宮殿に入ってゆく……。
このように始まるこの映画は、96分の間、一度もとぎれることなく持続した映像からなる。この映画を見ることで、私たちはなにを見ることになるのか。
形式的に言えば、この映画は一人称視点であり、通常の映画のように複数のカットをつなぐということがない。このため、この映画を観る者は、男=カメラがちょうど96分にわたってエルミタージュ宮殿のなかを歩きながら見聞きするもの(ロシア史)を、そのまま見聞きすることになる。これは一見、当該人物の持続する意識を経験しているようにも思える。しかし、私たちはこの映像から、「男」の意識を一人称的に経験していると言えるだろうか。
たしかに、一度も途切れることなく持続する映像は、私たちが目覚めて活動しているときの経験を思わせる。だが仮にそうだとすると、気になることがある。この映像は、いささか滑らかで、くっきりとものが見えすぎるという感覚をももたらすのだ。
この映像を見る者は、96分間だけ、この男の見聞きするものをそのまま見聞きする。限りなく同語反復になってしまうのだが、言い換えれば、この映像を見る者は、96分間だけ、この男の見聞きするもの《だけ》をそのまま見聞きするのである。つまり、男の知覚のうち、視覚と聴覚から入ってくるものを、そしてそれだけを見ることになる。
ここにはなにかがない。言うなれば、記憶の働きがないのである。いや、男は、知覚するものについて「あれはだれそれ」「これはどういう状況」と認識している。そのような意味では、記憶は働いている。だが、知覚はあくまではっきりとしつづけ、私たちが目に見えているものを認識せずにぼんやり考え事をするような状態や記憶に浸透される状態は、ここにはあらわれない。当の男は記憶を働かせているとしても、観る者の立場からは、知覚だけがあるように知覚されるのである。
といっても、ナイモノネダリをしようというのではない。そもそも監督は、途切れることのない持続した映像をつくろうとしたのであり、誰かの意識の状態を表現することを目指したわけではないと思われる。
けれども、『エルミタージュ幻想』が提示する映像を、持続する意識活動のうち、知覚を見せたものだと考えてみることで、ここまで私たちが読んできたロブ=グリエの小説が目指したものが、いっそうはっきりとするのではないだろうか。
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先に、知覚と記憶がからみあうロブ=グリエの小説の特徴について、「脳/環世界小説」というまことにこなれない言葉を持ち出した。最後にこのことについてもう少しだけ述べてみよう。
今回その一部を見た小説では、マチアスという人物の知覚と記憶との織りなす意識の動きに焦点があてられていた。ところで、この「意識」という言葉には、いささか能動的な感じがつきまとうが、見たようにマチアスの意識の動きは、必ずしも彼が「そうしよう」と意志することで生じるものばかりではなかった。
人の群れのなかを歩きながら、マチアスの意識が記憶へと移るとき、そこで働いているのは、意志的というよりは非意志的な作用である。それは、私たちが「意識しないうちに」「無意識のうちに」と口にするときに生じるような出来事だ。
ロブ=グリエの筆は、そうした意志と非意志のないまぜになった、意識と無意識の協働するようなマチアスの状態を描写している。だから、これを「心理」や「意識」の描写と述べてしまっては足りない。そこで、よりよい言葉が見つからないまま、さしあたってこれを「脳の状態」と捉える。
他方で、「環世界」とは、生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(Jakob von Uexkull, 1864-1944)から借りてきたものだ。
彼は『生物から見た世界』(日高敏隆+羽田節子訳、岩波文庫青943-1、岩波書店、2005)〔STREIFZUGE DURCH DIE UMWELTEN VON TIEREN UND MENSCHEN, 1934; 1970〕のなかで、「環境(Umgebung)」と「環世界(Umwelt)」という二つの概念を区別している。
「環境(Umgebung)」は、言ってみれば客観的に記述されるもので、「環境問題」と言う場合に念頭におく自然環境を考えればよい。これに対してユクスキュルは、「環世界(Umwelt)」という言葉で、或る生物が自分を取り囲む環境から主観的につくりあげる世界を指し示している。例えば、「同じ」環境であっても、イヌとダニと人間とでは、その環境から知覚するものは異なっており、それぞれの動物ごとに異なる環世界を持っているというように。
私たちが読んだ小説では、マチアスという人物が感知する環世界と、彼の脳で生じている知覚と記憶の状態とに焦点があてられていた。その小説の言葉は、起承転結といったストーリーの運びに奉仕するというよりは、それが小説の全体にとってどのような意味を持ちうるのかも定かならぬまま、「ただたんに、そこに《ある》」マチアスという人物の脳の状態と環世界とを、淡々としたためてみせていた。
そうした描写は、条理ある小説に慣れすぎた読者の目には、不条理なものに見えるかもしれない。しかし、ロブ=グリエの小説のほうから見るならば、大半の古典的小説には、いささか条理がありすぎるとも言えるだろう。古典的な小説のなかでは、描写のエコノミー(摂理/経済)が作動して、ストーリー展開に無関係な要素は捨象されることになる。ちょうど、小説のなかの人物たちの発話が、現実離れした滑らかさで書かれるように、ストーリーにとって「ノイズ」となるものは極力除去される。
だが、「ただそこに、確固としてある世界」を描いてみようとする場合、そうした方法を無自覚に採るわけにゆかない。ここでかりそめに「脳/環世界小説」と名付けてみた方法は、ありすぎる条理やありすぎる意味を退けて、或る具体的な人間の姿を描くために作家が創りだした方法であった。
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このたび本稿を書くにあたって、新旧を含むロブ=グリエの作品を改めて読んでみた。かつて「ヌーヴォー・ロマン(新しい小説)」と呼ばれた作品は、ひょっとすると時代の流れとともに、その「新しさ」を失っているかもしれないと思いながら。
今回取り上げたのは、『覗くひと』(望月芳郎訳、講談社文芸文庫ロA-2、講談社、1999)〔Le Voyeur, roman, Editions de Minuit, 1955〕という1955年の作品だった。すでに半世紀以上前に書かれた小説だ。
だが、『覗くひと』を含むロブ=グリエの初期作品は、少しも古びていないと感じた。同時代の小説の多くが、オールド・ファッションを墨守している一方で、幸か不幸か20世紀半ばに書かれたロブ=グリエの小説は、いまなお新しい。ちょうど、カフカやジョイスやプルーストが、もはや文学史の古典に数え入れられていながら、いまなお常に若々しいように。
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まだロブ=グリエを読んだことのない読者に向けて、その愉悦をご紹介しようと言いながら、私の言葉はかえってロブ=グリエの小説に余計な錘をつけることになってしまったかもしれない。
ここまでおつきあいくださった読者にこんなお願をするのも恐縮だが、ここで読んだことをただちに忘れて、あとはもう虚心坦懐に彼の小説に向かっていただければ幸いだ。
(了)
2008年4月14日号掲載
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