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who?

 

はじまりへ
タッフィ

 

 

 カビ臭い押し入れからアンティークに関する本なんかを引っ張り出したりしているうち、時刻は深夜になっていた。ひなびた飲み屋街のネオンがカーテンもない窓ガラスから入って人形を照らしている。隣の住人が帰宅した物音が合図のようになってやっと腰を上げた。とにかくこの汚れをなんとかしなくてはいけない。湯を沸かして洗面器に入れ、石鹸のかけらを溶かし込んだ液にタオルを浸して堅くしぼり、ていねいに毛の汚れをふき取っていった。幸い雨水が本体にしみ込んでいる様子はなく、思っていた通り汚れはほんの表面的なものだった。このようなハードタイプのものは水に濡れたらおしまいなのだ。

 それにしても、手に持ったときのその程よい固さといい、かたちといい、なんとこのテディベアはひとの心を落ち着かせなごませるのだろう。わたしは卑しい気持ちをしばし忘れ人形に見とれた。巻き毛はキャラメルを練ったときのような、見るからにあまそうな光沢があり、色はラファエロの描く天使の髪の毛のような、暖かで懐かしみのあるバーントシェンナだった。おもわずそれを抱きしめてみたり、子供の頭にでもするように、なでまわしたりにおいを嗅いだりした。気のせいなのか石鹸の香りに混じって、アーモンドタルトのような香ばしくて甘い匂いがする。手足の裏、鼻や口の刺繍など、細部にいたって、一針一針丁寧に造られたものだろうということがよく見て取れるのだが、その目の造りには驚くべきものがあった。ガラス製の目にはよくみると光彩までつくられており、クルミの木をくりぬいた眼窩にうめこまれてから取り付けられるという懲りようだ。奥には鏡でもはいっているのだろうか、電灯のしたでは向きによってピスタチオグリーンの光をきらきらとはなっている。ただその部分だけは、なぜだかえらく不自然でもあった。ゴミ集積所でこれを踏んだ時のいやな感触を思い出した。

 石鹸の成分をふき取らなければならないと思い再び湯を沸かす。隣の住人がテレビをつけたのだろうか、人の話し声や騒がしいだけのCMの音が壁から漏れてくる。再び熱湯が洗面器に満たされ、熱さに耐えながらタオルを絞って人形を拭いた。毛はさらにつやを増して、体からふんわりゆるゆると湯気がたちのぼったとき、突如、隣の部屋からいやにはっきりとした声が聞こえてきた。

── んー。。。もっとぉ。。。

 また見てるのか。好きだよな。

── んん、気持ちがいいぃ。。。

 子供の声だ。幼児ポルノ?そういうのはこっそり控えめに見てくれ。むっとして壁を見つめていると、急に手元がふるふると震えたような気がして思わずぬいぐるみを熱湯のなかに落とした。しまったと思ったその瞬間”あぁぁぁっ”という叫び声が部屋中に響き、洗面器からそいつは1メートルほどはねあがった。飛びのきざまに足で洗面器のはしをひっかけ畳のうえに湯がまき散らされ、あわててよろけた拍子にそれにすべって転倒した。びしょぬれになったぬいぐるみと、タオルをもったまましりもちをついているわたしは、そのまましばらく見つめあった。

2003年12月22日号掲載

 

 

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