エルがその話を耳にしたときは、噂が噂を呼んだ状態になっていてなにがほんとなのかもうわからなくなっていたのだが、どうやら確実なのは先週の金曜の夜にあのシナゴーグが半焼したということで、数年前は自身も祈りをささげたその礼拝堂がどんなふうに様変わりしてしまったのか、彼女はとてつもなく確かめたい衝動に駆られ話を耳にした雑貨店からまっすぐに教会に向かった。実際に行ってみると火事はもう三日前のことであるということもあってかさして人も集まっておらず、いつもと変わりないようにみえた。それでも建物に足を踏み入れた途端に彼女はいいようのない感情に引きずられ(それは建物にたいする郷愁というよりは、そこにいたときのころの自分を取り巻いていた日常のすべて。それがいまとくらべて不幸(そう)であればあるだけ吸引力をもつようにおもわれる)身震いした。半焼というのは実際にはおおげさで焼けたのは礼拝堂の一部だった。それでも、教会にとっての心臓ともいえる礼拝堂が焼けたことは信者にとってはすておけない大事件ではあったのだが。エルはひきよせられるように二階にあがり二列目の右から三番目の席に座った。
シナゴーグではまるで暗黙のルールのように信者たちがすわる定席がそれぞれに存在しており、その席はおそらくあれから誰も座ってない。彼女はそう確信して目を閉じ、焼けた礼拝堂のためにいくつかのヘブライ語の詩を唱えていると、さっきの強烈な引力を持つセンチメンタリズムがすぎさっていくとともにほとんど忘れかけていた細やかな記憶がそのときには気がつかなかったまた別の感情をひきつれてよみがえってきた。出会った当初から旧知の友のように接していた男の姿とともに。9年が過ぎてはじめて苦笑とともに認識された感情とは、男に対する特別な思慕すなわち恋愛感情なのである。滑稽にさえおもわれたが、そのままいたずらに掘り起こしているうちそれは生き生きとしてより大きな波となって何度も襲ってくるのだった。
祈りをささげていたほんの少しの間に外には人が集まっており、その中にいくつかの憶えのあるサイン(若干の時間の経過を付加しながらなおもゆるぎない)のかたまりをみつけるのは彼女にとっては予測どおりの出来事だった。「驚いたでしょう」男はまぶしそうに階段を降りてくるエルを見上げた。「ええ。どうしてこんな」
「いろいろあったんです。まあ、トラブルというか」「そうですか」二人は再会に感激することを自制するように淡々とした会話を交わした。男はエルをごく自然に近くのカフェに誘い、今回の事件の説明や近況などを報告しあった。火事は放火であった。ここのところ教会でおきていたトラブルとは、神父の交代劇によるものだったらしいということ。それにまつわる教会運営上の不正なども浮上し、そこでは外部の人間までが関わり始めていたことなどを、エルは少しはいってきたアルコールのために引き起こされた軽い頭痛のなかでぼんやり聞いていた。気がつけば彼らの間に長い間確固としてとしてそびえて互いの感情を遮断してきたはずの白い礼拝堂は、俗物的なカフェ空間の汚れてがたつくテーブルの上で二人の一致した思いに押し流されるように静かにくずれていき、彼らはそれまでとは違う目的のために再び会う約束を取り交わし、その後そのカフェで何度も会うようになるのだった。
2004年6月14日号掲載
|