以前に、「どうして人を殺してはいけないのか」ということについて考えてみたことがあった。というよりも、そういう質問をテレビ番組の中で投げかけた高校生がいて、そのことが神戸の少年の殺人事件と結び付けられて物議をかもしたということがあり、それについて考えてみたのだ。その時に思ったことは、この質問を投げかけた高校生と比べてみて、神戸の殺人者である中学生は、「どうして人を殺してはいけないのか」といった疑問が、疑問として前面化する前に、殺人という行動に走っていたのではないかということであった。
振り返ってみて、この考えが正しかったかどうかは分からない。けれども、どうしても違和感を持つのは、他人に「どうして人を殺してはいけないのか」と問うような人間は、少なくともそのことを問題としようとするような人間は、人を殺しはしないだろうということであった。
いずれにせよ、おそらくは、人が人を殺すとき、「どうして人を殺してはいけないのか」と問う前に彼はその人を殺しているのである。自分が人を殺そうとしているということを、殺そうとしている人が表明することは不利であるからだ。確実に殺すためには、表明する前に殺さなければならない。そして、このことを順番に拡大して考えてみれば、「どうして人を殺してはいけないか」という問いへの解答も導かれてくるように思われる。少なくとも社会においては、「人を殺してはいけない」と言わなくてはならない。
人が、ひとたび「社会人」となったときには、いうまでもなく「人を殺してはいけない」ことはあたりまえのことである。ある高校生が、仮に「人を殺してはいけない」ということに疑問をもったとするなら、彼の苛立ちは、むしろ自分がそのような「社会人」であることそのものに向けられているだろう。であるとするならば、この問いは「人は社会人とは違う生き方をすることができるか」というものに置き換えることができるだろう。私たちは、どうして「社会人」になり、「社会人」として生きなくてはいけないのか。「社会人」とは違う生き方を、私たちはすることができないのだろうか?
私は、「社会人」と違う生き方ができないものだろうか、という問いにはさしあたって答えないでおこうと思う。けれども「人を殺してはいけないか」ということについては、答えておこうと思う。「人を殺してはいけない。」何故ならそれは、一番大事なことは「自由」であることだと思うからだ。「自由」であることを尊ぶためには、他者の「自由」も尊ぶ必要がある。もし他者の自由というものが存在しなければ、世界に蓋然性は存在しなくなり、「自由」も存在しなくなるはずだからだ。「自由」な存在が集まり、互いの「自由」を尊重し、それを喜び合えるような世界に生きること、そのような世界に生きることが、「社会人」となるということと異なるのであるのならば、われわれは「社会人」とは違う生き方を求めるべきであるだろう。しかしさしあたって、そのような世界を、われわれ「社会人」は、「社会人」の延長線上で考えることからはじめざるを得ない。
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